かなり長い文章なので2回に分けて紹介する。
「スウェーデン皇太子殿下の軍報告第23号
ライプツィヒの司令部にて、1813年10月21日
達成されたばかりの偉大な戦果に先行した連合軍の移動と行軍は、計画の結果をすぐ知らせることができるよう、作戦に関するニュースに登場するのを遅らせなければならなかった。
10月5日、皇帝ナポレオンはドレスデンを発し、一方はエルベ左岸、他方は右岸を進む2つの縦隊でマイセンへと行軍した。ヴルツェンに到着した時、彼は兵とともにそこで止まった。4日間停止したこの動きはフランス軍にとって悲しむべきものとなり、ナポレオンが無敵であるという魔法を2つの戦いにおいて壊した。シュレジエン軍と北方ドイツ軍は左岸におり、どちらも強力な拠点や強力な都市をいずれの岸にも持たず、その連携と兵の勇気にのみ強さを頼っていた。彼らは会戦を申し出るか受け入れるまでこの河を渡って戻ろうとしないことを決めた。
皇太子とブリュッヒャー将軍はこの不確定な状況から素早く脱したいと欲した。そこで10月7日、彼らはムルデ河畔のミュールベックでプロイセンのヴィルヘルム親王と合流し、ライプツィヒへ行軍することが定められた。素早く動こうとしていた皇帝ナポレオンはシュレジエン軍を攻撃する計画を立てた。彼は相手の戦線を打ち破るべく行軍し、相手がヴァルテンブルク近くの橋に戻るのを阻止しようとした。この移動は予想されており、シュレジエン軍はムルデ右岸から左岸へと移動した。10日から11日にかけての夜間、両軍はツェルビッヒ、イェスニッツ及びラーデガストの陣地を発し、ザーレの背後に向かった。シュレジエン軍はハレへ、北方ドイツ軍はローテンブルクとベルンブルクに行軍した。この行軍に驚いた皇帝ナポレオンはエルベ河畔で動きを止め、それを再び続ける決断をした。彼はデッサウと、ロスラウの防御施設、ロスラウの橋を奪い、2個軍団をヴィッテンベルクへ送り出し、要塞の封鎖を指揮していたテューメン将軍を攻撃した。この勇敢な将軍は自らを守った後で、タウエンツィーン将軍の部隊のところへ退却し、彼らはエルベを渡って後退した。敵は即座にロスラウへと行軍してタウエンツィーン将軍を攻撃し、後者は行動指針に従いベルリンをカバーするべく後方へ移動した。敵は橋を破壊するためアケンへと行軍した。近い川岸にいた兵たちはかろうじて並べられたいくつかの砲兵中隊で接近路を守ったが、最終的には川の左岸へと退却し、舟橋を構成するボートをいくつか取り除いた。彼らは損害を受けなかった。デッサウ、コスヴィヒ及びヴィッテンベルク周辺で行われた先述の戦いに参加したものは400人を超えなかった。
皇帝ナポレオンがデューベンとヴィッテンベルク間にかなりの戦力を集め、この町を通ってマグデブルクへと行軍し危険な立場から抜け出そうとしていることがあらゆるニュースから見て取れたため、北方ドイツ軍は13日にザーレを再び渡ってケーテンへと向かい、皇帝の軍の行軍に追随し、どこであれ見つけたところで彼らを攻撃しようとした。10月14日、[フランス]第4及び第7軍団が騎兵第2軍団とともにエルベ右岸に、第11軍団がヴィッテンベルクに、第3軍団がデッサウに、そして老年親衛隊と若年親衛隊がデューベンにいることを知った。ラグーサ公はデリッチュにいた。同日夕、敵がアケンの町を攻撃した。ヘッセン=ホンブルク公の師団がそちらへ行軍したが、ヒルシュフェルト将軍は既にこの攻撃を行ったフランス第3軍団の一部を成功裏に撃退していた。
アケン近くの橋が再建され、まさにエルベを強行渡河しようとしていた時、皇帝ナポレオンがいくつかの軍団を戻し兵をデューベンとヴルツェン間に集めていると報告するニュースが届いた。だがその間、デッサウ、ヴィッテンベルク及びデューベン間に2個軍団が存在することから、彼が自らの計画について不確実性を振り撒くのに成功した後に大きな一撃を加えようと計画していると結論付けることができた。引き続き監視を続け、彼の動きが知られるようになり、もちろん北方ドイツ軍の行軍もそれに従って行われた。10月15日、当軍はハレ方面に向かった。皇帝は我らが再びザーレを渡ろうとしていると信じ、彼の軍をライプツィヒ周辺に集めた。シュヴァルツェンベルク公が司令官として率いる大ボヘミア軍も同時にこの町に接近しており、フランス軍の状況は時を追って悪化していた。10月16日、ザーレへ向かう代わりに北方ドイツ軍は左方面へと行軍し、ランズベルクへと進路を向けた。既にシュコイディッツへと行軍していたブリュッヒャー将軍はフライローデとラーデフェルトへ前進し、同日そこで敵を攻撃し、極めて頑強な戦闘の後にそこを突破し、敵をパーテ川の背後へと退却させた。この際彼らは捕虜2000人と鷲章旗1本及び大砲30門を奪った。
あらゆるニュースによると、皇帝ナポレオンは翌日、合流させた戦力の多い方でシュレジエン軍を攻撃すると報告されていた。北方ドイツ軍は17日午前2時にランズベルクの陣地を出発して行軍し、早い時間にブライテンフェルト周辺に到着してそこで宿営した。この日は静かだった。翌朝、プロイセンのヴィルヘルム親王とブリュッヒャー将軍が皇太子と面会した。ボヘミア軍がこの日、敵を攻撃するとのニュースを殿下は受け取った。そこで彼らはこの攻撃で大きな役目を果たすことを決めた。北方ドイツ軍はタウヒャを迂回し、左翼でベンニヒゼン将軍の軍と手をつなぎ、さらに伯爵ランジェロン将軍の軍団がこの日は殿下の指揮下に入ることで、ブリュッヒャー将軍と合意した。少し後、ボヘミア軍の方面から砲撃が聞こえてきた。兵たちはパーテ川を越えるため出発した。最左翼を構成するビューロー将軍の軍団とヴィンツィンゲローデ将軍の騎兵がタウヒャへと行軍した。伯爵ヴォロンツォフ中将が前衛部隊を指揮するロシア軍はグラスドルフ地域でパーテを渡渉した。スウェーデン軍はこの地とプラウシッヒの間の地点で渡った。既に前日、ヴィンツィンゲローデ将軍はタウヒャを占拠しこの町で士官3人と兵400人を捕らえていた。だがこの地点の重要性を理解していた敵は、コサック兵を追い払いかなりの戦力で村(タウヒャの町)を占拠していた。男爵パーレン将軍は、この戦闘で脚を奪われた騎馬砲兵のアルノルディ大佐に精力的に支援されながら素晴らしい攻撃を行い、村(町)を奪ってそこでザクセン軍2個大隊を包囲し、これを捕虜とした。騎兵はそれから前進し、ベンニヒゼン将軍の軍に所属する伯爵ブブナ将軍指揮下のオーストリア師団の一部を構成する伯爵ナイペルク将軍の前衛部隊との合流を果たした。同時にプラートフ隊長のコサック兵到着し、少し後にはコンスタンティン大公殿下も到着した」
以下次回。
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