ライプツィヒ史料 2

 承前。ライプツィヒの戦いに関するシュヴァルツェンベルクの報告続き。

「敵は今や右翼に対して異常なほど大胆な攻撃を実行した。彼らの意図はそれを中央から切り離すことにあった。ヴィトゲンシュタイン伯とクレナウ伯の両将軍は再び最大級の冷静さでそれを受け止め、敵が騎兵縦隊とともにゴッサ近くまで前進してきても、ロシア擲弾兵たちは揺らぐことなく陣地を維持した。うまく向けられた砲撃と、全ロシアの皇帝陛下の副官である将軍オルロフ=デニソフ伯率いる近衛コサック連隊による輝かしい攻撃とが、再び敵にヴァヒャウの背後へ退却することを強いた。司令官である[シュヴァルツェンベルク]元帥は今やヴァヒャウ高地を支配すべく全面的前進を命じた。
 ロシア近衛兵とオーストリアのヴァイセンヴォルフ擲弾兵師団はこの攻撃を支援することになり、敵を最初の配置からはるか後方へ追い払った。騎兵大将メーアフェルト伯は敵右翼の背後、コネヴィッツ村近くでプライセを渡って進むよう指示された。夕方、騎兵大将は最大限の努力を払った後でどうにか渡河した。だが敵の数的優位によって渡河した大隊は後退を強いられた。メーアフェルト将軍の乗馬は殺され、彼自身も銃弾で軽傷を負い捕虜となった。
 中将アロイス・リヒテンシュタイン公はメーアフェルト軍団の一部とともに終日、最も激しい攻撃から陣地を維持した。砲兵大将ギューライ伯は、敵が地形を利用して最も執拗な抵抗を見せたリンデナウに突入し、大砲2門を奪った。
 一方、騎兵大将ブリュッヒャーは敵を打ち倒し、メッカーンから追い払い、海軍親衛隊の鷲章旗と大砲20門を奪って2000人を捕虜にした。夜が来てこの日の戦いは終わった。
 騎兵大将ベンニヒゼン男爵は、ドレスデン正面に十分な軍団を残した後で主力軍へと向かう途上にあったが、可能な最大限の努力を払ったにもかかわらず、翌17日になってもコールディッツまで、またフライベルクからケムニッツへの道を取った砲兵大将コロレード伯はボルナまでしか到達できなかった。
 ケーテンにいたスウェーデン皇太子は、レイニエ将軍の移動が単なる示威行動に過ぎないと確信。この敵軍団を分断するか、あるいは彼らがフランス軍主力と合流するならライプツィヒ平原における全面的襲撃に参加するためにブリュッヒャー将軍と合流することを決断し、この目的のためこの日の前にハレ付近まで前進した。
 17日にスウェーデン皇太子の軍及びベンニヒゼン将軍と砲兵大将コロレード伯の各軍団がなお主力軍から遠くにおり、会戦に能動的に参加するため間に合うように到着することができないことから、司令官元帥は翌日まで攻撃の再開を待つことにした。
 17日夕、スウェーデン皇太子はタウヒャに、騎兵大将ベンニヒゼン男爵はナウンホフに、そして砲兵大将コロレード伯は主力軍のところに到着した。
 18日、コネヴィッツの敵主力は戦列を組んでデーゼンからヴァヒャウを経てフーフスハイン及びザイファーツハインへと行軍し、ブリュッヒャー将軍及びスウェーデン皇太子に対しても軍団を配置した。以後ライプツィヒは敵が大量に占拠した。
 午前8時、主力軍の攻撃が3個縦隊で始まった。敵をライプツィヒへと圧迫するのが狙いで、司令官元帥はそのため騎兵大将ベンニヒゼン男爵とクレナウ伯の各軍団を右翼とした。
 バルクライ=ド=トリー将軍が指揮する第2縦隊は騎兵大将ヴィトゲンシュタイン伯、及びクライスト中将の各軍団で構成され、ロシア及びプロイセン近衛全部隊がその予備となった。
 騎兵大将ヘッセン=ホンブルク世継ぎ公が指揮する第3縦隊はビアンキ、アロイス・リヒテンシュタイン公、ヴァイセンヴォルフ伯及びノスティッツ伯の各師団で構成された。この縦隊の予備として砲兵大将コロレード伯とその軍団が後に続いた。
 第1縦隊はザイファーツハインからホルツハウゼン方面へ、第2はゴッサからヴァヒャウ高地へ移動し、そして第3はデーゼンとレスニッツ間の高地を占拠した。
 敵は我々の襲撃縦隊の前進を止めるため可能なあらゆることを行った。だが何一つとして連合軍兵の勇気に逆らうことはできなかった。彼らは次々と陣地から押し戻され、日没時にはコネヴィッツからプロプストハイダを経てツヴァイナウンドルフの陣地に押し込められた。敵は特に右翼に押され、大砲を7門奪われた。
 スウェーデン皇太子は正面の敵を追い払ってパウンスドルフまで前進し、騎兵大将ブリュッヒャーは自身の軍のいくつかの軍団とともにパーテを渡った。ノルマン将軍指揮下のヴュルテンベルク騎兵2個連隊と、リーセル将軍指揮下のザクセン騎兵2個連隊とザクセン歩兵7個大隊、及び砲兵4個中隊の大砲27門がこの日、敵の戦列を離れ、ともにドイツの大義の守護者となるべく連合軍に加わった。
 午前10時頃、フランス軍はヴァイセンフェルス及びマーゼブルク街道への退却を始めた。それは妨げられることなくその日の日中と続く夜間まで続けられた。
 リンデナウから出てくる敵を成功裏に攻撃するために必要なだけ多くの兵をエルスター川左岸に持ち込むことができなかったため、砲兵大将ギューライ伯は軍団をペガウへと差し向け、軽兵で敵を邪魔するよう命じられた。
 19日夜明け、敵はツヴァイナウンドルフとコネヴィッツ向かいの道沿いの家々正面にある風車にのみとどまっていた。全面攻撃は午前7時に再開され、敵はライプツィヒに身を投じた。ここで彼は兵たち、大砲及び軍の物資を救い出そうとして使節を送り、町への砲撃を控えフランスの守備隊が今あるフランス軍の財産全てとともに自由に出発するのを認めることを条件に、ザクセン兵の残りを引き渡すと申し出た。
 この要望は拒否された。連合軍は既に郊外を占拠していたが、敵は今や町を守ろうとした。連合軍は敵の砲撃にもかかわらず町に突入。広場に整列させられていたザクセン兵は即座に武器をフランス軍に向け、バーデン歩兵連隊もザクセン兵の例に続いた。白兵戦が広がり、敵は前例のない混乱に陥った。誰もが今や自らの安全のみを考え、連合軍は町を支配した。
 深く考えられかつ幸運でもあった、連合国全軍を敵主力のいる地点に対して集結させるべく計算された作戦の結果は、栄光あるこの3日間における大砲250門、弾薬車900両以上の奪取につながった。現時点までに8000人以上の捕虜が連れてこられた。その中には3人の軍団指揮官、ローリストン将軍、レイニエ将軍及びベルトラン将軍と、10人の他の将軍も含まれる。
 16日にフランス帝国元帥に任命されたポニャトフスキー公は、もはや橋を渡って逃げることができなかったため、エルスターを渡って助かろうとしたが、捕らえられた彼の副官の証言によれば、この河で死んだという。
 1万5000人以上の病人と負傷者がいた全ての野戦病院も我らの手に落ちた。
 長さと幅がそれぞれ3時間の距離に達する、ドイツの大義と欧州の平和がほとんど3昼夜にわたって争われた戦場は、敵の死体によって覆われており、フランス軍が全方面で被った損害は少なくとも4万人に達したと計算できる。夕刻、ポーランド歩兵8個連隊が敵の軍旗を離れ連合軍に加わった。
 連合軍の損害は合計して最大で死傷者1万人だった。
 3人の連合国君主は昨日、決定的な日においてヴァヒャウとプロプストハイダ間の高地において兵たちの尋常ならざる勇気を目撃した。
 皇帝にして国王陛下は戦場において司令官、元帥シュヴァルツェンベルク公にマリア=テレジア大十字勲章を、ロシア皇帝陛下は第1級聖ゲオルギイ勲章を、プロイセン国王陛下は黒鷲勲章を授けた。
 現在の戦役過程において行われたとても困難な作戦によってこの会戦の幸福な結末に多大な貢献をなした騎兵大将ブリュッヒャーに対しても、皇帝にして国王陛下はマリア=テレジア大十字勲章を与え、彼の参謀長だったグナイゼナウ将軍にはマリア=テレジア司令官十字勲章を授けた。
 皇帝にして国王陛下は、詳細な報告が書かれる前に、この栄光の日々において特に名を馳せた将軍たちと士官たちを知らしむる権利を保留している。
 全軍は敵のすぐ後を追撃すべく移動中である」
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