ライプツィヒ史料 1

 ライプツィヒの戦いに関する史料の日本語訳を載せておこう。まずは会戦前にシュヴァルツェンベルクが出した布告から。原文はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=crldAAAAcAAJ"のp366にあり、フランス語訳がこちら"https://books.google.co.jp/books?id=DXoOAAAAQAAJ"のp237-238で読める。邦訳はドイツ語準拠で、カッコ内はフランス語文献にのみあるものだ。

「勇敢な戦士たちよ、聖なる戦いの最も重要な時が来た! 決定的な時が告げられた、戦いに備えよ! 大義のための強き諸国民の結束は、戦場においてさらに固くなる。ロシア人よ! プロイセン人よ! オーストリア人よ、諸君は1つの目的のために(同じ大義と欧州の自由のために)戦え! 諸君の大義の(子供たちの)ために、諸君の名を不朽のものにするために戦え!
 皆は一人のために! 各々は皆のために! このいと高き男らしい掛け声とともに、聖なる戦いを始めよ! 決定的な時にもその掛け声に忠実であれば、勝利は諸君のものとなろう。
 シュヴァルツェンベルク公カール、元帥」

 フランス語版がいくつか余計な文言を付け加えているのが分かる。これだけ短い文章なのにどうしてこうなるのかとも思えるが、そもそもこの時代にはあまり原文を尊重するという概念がなかった"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49800646.html"ことを踏まえるなら、この程度は仕方ないのかもしれない。
 ただこの点は、これまで紹介してきた「出版済み文献で引用されている一次史料」に関する信頼度を下げる一例でもある。そこまで気にするのであれば、公文書館に出かけていって現物をこの目で確かめる必要が出てくるのだが、そこまでやるのが難しいことまで踏まえるなら困った問題と言える。

 次にライプツィヒ北方のメッカーンで行われた10月16日の戦闘に関するプロイセンの報告を紹介する。戦闘翌日の17日に書かれたもので、原文はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=aQY8AQAAIAAJ"のp1553で、フランス語訳はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=DXoOAAAAQAAJ"のp245-236で読むことができる。

「1813年10月16日のメッカーンの戦闘に関するプロイセン公報
 ハレ、1813年10月17日
 シュレジエン軍司令官たる中将ブリュッヒャー閣下は、同軍とともに10月3日にエルベを渡りエルスターに向かった後で、ハレへと移動し、そこに10月11日に到着した。兵士及び馬匹が極めて必要としていた4日間の休息後、ブリュッヒャー将軍は15日にライプツィヒへと向かった。同日、彼は司令部をシュコイディッツに置いた。彼の前哨線はメッカーンにあった。
 16日午後2時、メッカーンの戦いが始まった。フランス軍はこの地の近くにバリケードを築いていたが、何物も勇敢なプロイセン兵とロシア兵を引き下がらせることはできなかった。恐ろしいフラーという叫びとともに彼らは銃剣を持って敵に襲い掛かり、敵は塹壕から追い払われゴーリス村へと退却した。兵たちはここも攻撃したが、勇敢なプロイセン兵は3回、押し戻された。4度目に彼らは敵を追い戻すのに成功し、敵は大急ぎで混乱しながらライプツィヒ市内へと身を投じた。彼らはそこまで追撃され、プロイセン軍は夕方8時頃には郊外を支配していた。
 約40門の大砲、士官79人と大佐1人を含む捕虜2000人、鷲章旗2本と大量の弾薬車が勝利の戦果だった。敵は死傷者5000人以上を失ったが、我々の損害も僅かではなかった。負傷者の中にはメクレンブルク公がおり、彼はシュコイディッツに運ばれた。
 ヴァーレン村、メッカーン村及びゴーリス村は多くの損害を被ったが、戦闘そのものとフランス軍の退却の両方で受けたものではなかった。
 本日10月17日、ブリュッヒャー将軍は司令部をライプツィヒから数時間の距離にあるリンデンタールに置いている」

 さらに会戦後、10月19日に書かれたシュヴァルツェンベルク公の報告書も載せよう。オーストリア軍による公式の第一報とも言える。原文はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=aQY8AQAAIAAJ"のp1509-1511に載っているのを使ったが、それ以外にこちら"https://books.google.co.jp/books?id=usRNAAAAcAAJ"のp332-341に掲載されているもの、さらにフランス語訳としてこちら"https://books.google.co.jp/books?id=DXoOAAAAQAAJ"のp246-257に載っているものも使った。
 困ったことにこれを見ると、同じドイツ語文献でも微妙に書かれているものが違っているところが存在する。一応、最も古いÖsterreichischer Beobachterに載っているものを主に使った。また文章がかなり長いので、途中で切って以下は次回に載せることになる。

「ライプツィヒの戦いに関するシュヴァルツェンベルク公の報告
 レータの司令部、10月19日
 皇帝ナポレオンは今月15日、ライプツィヒに全戦力を集め、右翼をコネヴィッツに、中央をプロプストハイダに、左翼をシュテッテリッツに配置し、正面前方ではデーリッツ、ヴァヒャウ、及びホルツハウゼンの村々を占拠した。騎兵大将ブリュッヒャーの軍に対して彼は親衛隊の一部を含む2つか3つの軍団を置いた。他の軍団の分遣隊で強化されたレイニエ将軍の軍団はその日なおヴィッテンベルクにおり、右岸のロスラウに対する示威行動を行うためそこでエルベを渡った。
 主力軍と、シュコイディッツに到着したブリュッヒャー将軍の軍で16日朝に敵を攻撃することが決められた。ブリュッヒャー将軍はシュコイディッツからパーテ川を越えてライプツィヒへ前進する。砲兵大将ギューライ伯はリュッツェンからリンデナウへ、ペガウの騎兵大将メーアフェルト伯とオーストリア軍予備軍団はツヴェンカウからコネヴィッツ方面へ移動する。騎兵大将ヴィトゲンシュタイン伯は、クライスト中将の軍団及び騎兵大将クレナウ伯の軍団とともにグレバーン及びゴッサの陣地からリーバートヴォルクヴィッツへ向かう。主力軍の攻撃は午前8時に始まった。敵は14万人から15万人の兵を展開し、特に我々の右翼を迂回しようと考えていたらしく、リーバートヴォルクヴィッツにとても巨大な騎兵集団を送った。戦いはあらゆる地点でとても激しい砲撃によって始まった。1000門以上の大砲が互いに砲撃した。
 コネヴィッツへの攻撃は、敵が多くの大砲と歩兵で橋と堤防を守り、地形のせいで大砲を敵に対して使うのが不可能だったため、正面からは実行できなかった。敵がいくつかの巨大攻撃縦隊を中央及び最右翼に対して動かし始めたのを見るや否や、司令官の元帥シュヴァルツェンベルク公は、騎兵大将ヘッセン=ホンブルク世継ぎ公の指揮下にあるオーストリア予備軍団全てをガシュヴィッツとデューベンでプライセ右岸へ渡らせ、グレバーン正面へ行軍させた。
 騎兵大将ヴィトゲンシュタイン伯、クライスト中将及び騎兵大将クレナウ伯は敵のあらゆる攻撃を撃退した。司令官バルクライ=ド=トリーは擲弾兵軍団といくつかの近衛騎兵連隊で中央を支援した。この際、クライスト軍団は大砲5門を奪った。
 中将ノスティッツ伯指揮下のオーストリア予備騎兵の尖塔がグレバーンから出撃した時、敵はいくつかの歩兵方陣に支援された騎兵の巨大集団によってどうにか左翼に対しグレバーン近くまで前進してきた。中将ノスティッツ伯は一時も失わずに自らの騎兵で敵へと駆けつけ、彼らを圧倒し、いくつかの方陣に飛び込んでそれらを切り裂いた。ヘッセン=ホンブルク世継ぎ公は、騎兵の直後にグレバーンから出撃したビアンキ中将の師団とともに、マルクトクレーベルクの高地まで前進した。ビアンキ中将は敵戦線の側面に砲撃を浴びせ、彼らを撃退して大砲8門を奪った」

 以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック