戦場の5兄弟

 第二次大戦中、米国では5人の兄弟が1つの軍艦に乗り合わせ、全員戦死するという事態があった"https://en.wikipedia.org/wiki/Sullivan_brothers"。そうしたこともあって後に彼らは家族の「唯一の生存者」を軍務から外す政策"https://en.wikipedia.org/wiki/Sole_Survivor_Policy"を取るようになった。映画プライベート・ライアンもこの政策を題材にしたものだ。
 だがそうした温情的な政策が出てきたのはようやく20世紀に入ってから。それ以前においては1つの戦場に多くの兄弟がいるのは珍しくもなかった。ナポレオン戦争期最大の戦いであるライプツィヒの戦いでもそれは同じ。中には実に5人もの兄弟がこの戦場付近に居合わせたケースもある。フランクフルト=アム=マインのすぐ近くに領土を持つヘッセン=ホンブルク方伯の兄弟たちがそうだ。

 長男フリードリヒ"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/hessen.html"はナポレオンと同じ1769年生まれ。ライプツィヒの戦い当時は騎兵大将General der Kavallerieとしてオーストリア軍予備軍団を率いていた"https://fr.wikipedia.org/wiki/Ordre_de_bataille_de_la_coalition_lors_de_la_bataille_de_Leipzig"。指揮下にあったのは擲弾兵師団と歩兵師団各1つ、そしてこちら"https://books.google.co.jp/books?id=lnouAAAAMAAJ"によれば胸甲騎兵師団もその配下に含まれていたようだ(Beilage XX)。
 彼の部隊は当初、メーアフェルトの後に続いてコネヴィッツへと前進する中央部隊に配属されていた。だがコネヴィッツ攻略が上手くいかないことが分かった段階でシュヴァルツェンベルクの命令によりプライセ右岸へと渡り、それ以降はプライセ川に沿って北上しながらフランス軍に圧力をかけた。18日までの戦いが評価されたのだろう、彼はマリア=テレジア勲章を受けている("https://books.google.co.jp/books?id=dqcvGoUUpj8C" p44)。
 次男ルートヴィヒ"https://www.napoleon-series.org/research/biographies/Prussia/PrussianGenerals/c_Prussiangenerals37.html"は兄と年子の1770年生まれ。兄がオーストリア軍に従軍したのに対し、こちらはプロイセン軍に仕える道を選んだ。1813年戦役においては北方軍に所属するビューロー軍団の第3旅団(実質師団相当)の指揮官として戦闘に参加した("https://books.google.co.jp/books?id=5a5PAAAAcAAJ" p518)。
 北方軍がライプツィヒの戦いに参加したのは終盤の18日になってからだ。ビューロー軍団はライプツィヒ北東にあるタウヒャを経由してパーテ川の左岸へ進出。ルートヴィヒの第3旅団はタウヒャに隣接するグラースドルフで同じくパーテを渡り("https://books.google.co.jp/books?id=mpBBVbbEvYcC" p279)、そのままライプツィヒ街道を進んでいった。既に局面は終盤に入っていたため長男ほどの活躍はしなかったが、それでも会戦に参加したのは間違いない。
 三男フィリップ"https://www.napoleon-series.org/research/biographies/Austria/AustrianGenerals/c_AustrianGeneralsH.html#H42"は上2人とは年齢が少し離れた1779年生まれ。後に元帥にまで出世し、伝記も書かれた"https://books.google.co.jp/books?id=pf5SAAAAcAAJ"。ライプツィヒ会戦の時はボヘミア軍左翼を構成していたギューライ第3軍団の第3師団を指揮していた("https://books.google.co.jp/books?id=lnouAAAAMAAJ" Beilage XX)。
 彼はリンデナウ攻撃に際して左翼を担当("https://books.google.co.jp/books?id=n05DAAAAcAAJ" p403)。リンデナウ北西のロイチュを奪うことには成功したが、リンデナウの襲撃は2回行ったものの失敗した。その後、彼はロイチュ西方の高地へと後退し、散兵のみがリンデナウ周辺での戦闘を続けたという(p468)。2人の兄に比べるとあまり活躍できなかったようだ。
 四男グスタフ"https://www.napoleon-series.org/research/biographies/Austria/AustrianGenerals/c_AustrianGeneralsH.html#H41"は1781年生まれで、ライプツィヒの会戦時にはモーリッツ・リヒテンシュタインの第1軽師団に所属する旅団を指揮していた("https://books.google.co.jp/books?id=a6NmAAAAcAAJ" p407)、ことになっているのだが実態はもう少し複雑だ。
 こちら"https://books.google.co.jp/books?id=qhpCAAAAcAAJ"によると10月10日にナウムブルク近くのヴェタウで第1軽師団が行った戦闘の同時期にグスタフはイエナに派出されたという(p49)。ヴェタウの戦いそのものに関する記述を見るとグスタフの名は見当たらない("https://books.google.co.jp/books?id=e2pIAAAAYAAJ" p93)。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=ma8UAAAAYAAJ"によれば9日の時点でグスタフは既に「ザーレの対岸に送り出されていた」(p56)という。
 ゲーテの日記"https://books.google.co.jp/books?id=N6neDAAAQBAJ"には10日の朝にグスタフが公夫妻を訪ねて来たという記述がある。もちろんここで言う公とはヴァイマール公のことだろう。9日以前にザーレ左岸に派出されたグスタフが、空いた時間を利用して短時間だがヴァイマールまで足を伸ばしたのは事実なのだろう。ライプツィヒ会戦少し前に彼がフランス軍の背後へ遠出していたことが分かる。
 問題は会戦が行われた時に彼がどこにいたかだ。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=qhpCAAAAcAAJ"によると会戦時にはリヒテンシュタインの師団がティールマン及びメンスドルフとともにギューライと連携したとある(p49-50)。当然、リヒテンシュタイン師団に所属するグスタフもいたと考えられるが、一方でグスタフと同時期にやはりザーレに派出されたメンスドルフに言及しながらグスタフの名に触れていない点から彼は引き続きザーレ方面にとどまっていたとも解釈できる。
 方伯一族の伝記"https://books.google.co.jp/books?id=07yauUND53gC"によれば「彼も彼の兵も予備だったため、ライプツィヒの戦いにおいて特に名を上げる機会を見つけられなかった」(Dritter Band: p167)とある。一応、戦場付近にはいたが本格的な戦いには参加しなかったと見るべきだろう。
 五男フェルディナント"https://www.napoleon-series.org/research/biographies/Austria/AustrianGenerals/c_AustrianGeneralsH.html#H39"は1783年生まれで1813年時点ではまだ大佐Oberstだった。彼が指揮していたのは第7胸甲騎兵連隊"https://www.napoleon-series.org/military/organization/Austria/cavalry/c_austriancav1.html"である。
 ライプツィヒの戦いで彼の部隊はノスティッツの予備騎兵に所属していた("https://books.google.co.jp/books?id=lnouAAAAMAAJ" Beilage XX)。16日のヴァヒャウにおける戦闘で彼は「あらゆる危険に身をさらし、戦士たちに最も大胆なヒロイズムの範を示した」("https://books.google.co.jp/books?id=07yauUND53gC" Dritten Band; p192)そうで、その功績に応じてマリア=テレジア勲章を受けている("https://books.google.co.jp/books?id=dqcvGoUUpj8C" p44)。
 実はライプツィヒ近辺の戦場には彼らのもう1人の兄弟もいたことがある。1787年生まれの六男レオポルト"https://de.wikipedia.org/wiki/Leopold_von_Hessen-Homburg"は次男ルートヴィヒと同じくプロイセン軍に入隊。1813年の春季戦役においてライプツィヒ近くのグロース=ゲルシェンで行われた5月2日の戦い"https://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_bei_Gro%C3%9Fg%C3%B6rschen"で戦死している。5兄弟はいわば春に戦死した弟の仇を秋に討ったとも言える。

 軍人としては華々しい活躍をしたヘッセン=ホンブルク方伯の兄弟たちだったが、領邦君主としての義務は果たせなかった。5人のうち1人は生涯独身、1人はすぐ離婚、2人は高齢になってからの結婚で子供がなく、唯一グスタフのみが男児をもうけたがこの息子は父親よりも先に死んでしまった。1866年、最後の生き残りであるフェルディナントが死んだ時点でヘッセン=ホンブルク方伯家は断絶した。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック