だがそうした温情的な政策が出てきたのはようやく20世紀に入ってから。それ以前においては1つの戦場に多くの兄弟がいるのは珍しくもなかった。ナポレオン戦争期最大の戦いであるライプツィヒの戦いでもそれは同じ。中には実に5人もの兄弟がこの戦場付近に居合わせたケースもある。フランクフルト=アム=マインのすぐ近くに領土を持つヘッセン=ホンブルク方伯の兄弟たちがそうだ。
問題は会戦が行われた時に彼がどこにいたかだ。こちら"
https://books.google.co.jp/books?id=qhpCAAAAcAAJ"によると会戦時にはリヒテンシュタインの師団がティールマン及びメンスドルフとともにギューライと連携したとある(p49-50)。当然、リヒテンシュタイン師団に所属するグスタフもいたと考えられるが、一方でグスタフと同時期にやはりザーレに派出されたメンスドルフに言及しながらグスタフの名に触れていない点から彼は引き続きザーレ方面にとどまっていたとも解釈できる。
軍人としては華々しい活躍をしたヘッセン=ホンブルク方伯の兄弟たちだったが、領邦君主としての義務は果たせなかった。5人のうち1人は生涯独身、1人はすぐ離婚、2人は高齢になってからの結婚で子供がなく、唯一グスタフのみが男児をもうけたがこの息子は父親よりも先に死んでしまった。1866年、最後の生き残りであるフェルディナントが死んだ時点でヘッセン=ホンブルク方伯家は断絶した。
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