落穂拾い

 火薬関連の落穂拾いをいくつか。以前、フィクションにおける火薬兵器の話を書いた"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56536965.html"のだが、実はそこで紹介しているよりもっと前の時代を描いたもので火薬を登場させた漫画があった。西遊妖猿記がそれで、時代は唐の初期、玄武門の変の頃だ。
 長安の宮殿に地下の抜け道経由で忍び込もうとする時、メンバーの1人が「孫思バクという道士から以前きいた方法をわしなりに改良した」竹筒を持って同行。地下でワニに襲われた際に竹筒に火をつけて火槍のように使う場面が描かれている。その際に作中に出てくる講釈師がニーダムの「中国科学の流れ」"https://www.amazon.co.jp/dp/4783501181"を読みながら「一部の道士たちは古くから硫黄と硝石と木炭を混合する実験をしていたようですが、この頃すでに火薬があったかどうかは定かでございません」と語っている。
 孫思バクについてはこちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56121429.html"で説明済み。もし本当に「伏火硫黄法」が彼の手がけたものであるのなら、確かにこの時期に火薬を出すこともできる。もちろん論拠として乏しいことは既に指摘している通りであり、実際はあくまでもフィクションとしての面白さを優先したと考えるべきだろう。

 同じフィクション関連ではシュトヘルに出てくる「着弾と同時に爆発する火薬の入った矢」の元ネタらしいものも見つけた。火箭法"https://kotobank.jp/word/%E7%81%AB%E7%AE%AD%E6%B3%95-44805"がそれで、「やじりに火薬を仕掛け、箭 (や) の効力を強める方法」と書いている。こういう言い回しで紹介されると、確かに矢が当たったと同時に爆発する兵器を思い浮かべるのも無理はない。
 だがこの火箭法なるものは、実際は単に初期の火薬を使った火矢を意味するものに過ぎないと思われる。証拠となるのは発明者として名前が紹介されている岳義方と馮義昇。後者はこちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55968007.html"で紹介した970年に新しい火矢を提案して褒美をもらった人物である。
 もう一人の岳義方についても、明代に書かれた大學衍義補"https://archive.org/details/06079294.cn"に登場する。曰く「宋太祖開寳二年馮義昇岳義方上火箭法試之賜束帛」(21/168)で、宋史では「等」でまとめられていた人物の中に岳義方もいたようだ。ただ宋史で開寳三年になっているのがこちらでは「二年」になっている理由は分からない。

 文献資料が乏しいと言われる元関連だが、火薬兵器っぽい記述があることはこれまでも言及してきた。元史に載っている中でこれまで紹介しきれていないものを書いておこう。まずは1275年の南宋攻撃の際に火砲が使われた事例として「多建火砲張弓弩」("https://archive.org/details/06075105.cn" 25/163)や「火砲焚城」「以火砲攻」("https://archive.org/details/06075113.cn" 49/147)がある。いずれも銃砲ではなく、震天雷のような投石機で投げるものを示す可能性がある。
 14世紀については1352年の「設雲梯火砲」("https://archive.org/details/06075126.cn" 106/149)や、以前も触れたが1364年の「火銃什伍相連」("https://archive.org/details/06056925.cn" 187/230)がある。後者は銃砲だろうが、前者はやはりてつはうの類だと思われる。

 中国から西欧へ移った火器についての記述についてもいくつか。まず最も初期の記録とされるフィレンツェの文献についてだが、こちら"https://archive.org/details/geschichtevonf03davi"のp758に説明が載っているようだ。また最初に海戦で使われたスロイスの戦いについては、こちら"https://books.google.co.jp/books?id=fDObq4yaRZcC"によると年代記にそうしたことが書かれているという(p492)。
 こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56476858.html"で紹介した初期の火器を描いたフレスコ画に関してだが、こちら"http://www.academia.edu/3157497/Some-Notes-on-the-Earliest-European-Firearms"によると14世紀に火器に言及した記録はトスカナには4種類しかなく、そのうちフレスコ画は100年後に描かれたものだとしている。どこまでこの主張が正しいのかは不明。

 西欧から火器が周辺に拡大していったことは知られている。例えばボヘミアでは1383年に銃の暴発に関する記録が残されている("https://books.google.co.jp/books?id=uACVAwAAQBAJ" p56)。ただし実際にはもっと早くに伝わっていた可能性は高いだろう。実際、バルカン半島では既に1346年にはボンバルド(この当時のボンバルドは小さなものだった)が使われていたという("https://books.google.co.jp/books?id=dNqzjfWABSAC" p17)。それにモスクワで1382年に銃が使われた記録もある("https://books.google.co.jp/books?id=WaEaIsb1Y6gC" p159)。
 それより遠方はどうか。中央アジアについては14世紀末に伝わった可能性が指摘されている。しばしば指摘されるのはティムールの宮殿に大使として送られたカスティリアのClavijoが残した記録に出てくる「彼はトルコから銃砲鍛冶を連れてきて、彼らはアルケブスを製造した」("https://books.google.co.jp/books?id=DYpm1Nmvd8MC" p151)とある部分だろう。ただしChaseはこれを誤訳だと指摘("https://books.google.co.jp/books?id=esnWJkYRCJ4C" p235)しているし、原文("https://books.google.co.jp/books?id=36i7HGGStA4C" p190)にあるballesterosは弩弓兵と翻訳できる。
 ティムールが支配したペルシャに関してはこちら"http://www.iranicaonline.org/articles/firearms-i-history"に記録がある。ティムール関連の年代記には「雷を投じるもの」「黒いラクダ」といった火器の可能性を窺わせる記述も出てくるのだが、昔ながらの兵器なのか、火薬を使っているのか、本当の大砲なのか、そのあたりは分からないようだ。間違いない使用例とされているのは1471年に白羊朝へ向けてヴェネツィアから火器が送られたという記述になるのだが、この兵器はタブリーズには到着しなかったという。

 最後にインドへの伝播時期だ。こちら"http://insa.nic.in/writereaddata/UpLoadedFiles/IJHS/Vol4_2005_06_EPIC%20OF%20SALTPETRE%20TO%20GUNPOWDER.pdf"には色々な文献に載っているインドへの武器伝播が紹介されているが、中には当てにならないものもあるようだ。例えば1406年にベンガルで大砲が製造されていたという説(p557)は、後の時代の証拠によって否定されるという("https://books.google.co.jp/books?id=WaEaIsb1Y6gC" p393)。
 1419年には中国の火砲がカリカットに持ち込まれたという(p560)。この話はおそらく、ヴァスコ=ダ=ガマの帰国に同行したインドの水先案内人がフィレンツェの貴族に述べた話("https://books.google.co.jp/books?id=XArOAAAAMAAJ" p223)が元になっているのだろう。火薬の構成要素として硝石に触れた記録が出てくるのもこの頃が最も古いらしい。
 1442-43年には北インドの君主が同盟国に青銅製の大砲2門を与えたという話が出てくる(p561)。どうやらほぼ同時代の歴史家、Shihab Hakimの書いた文章が論拠となっているようだ("https://books.google.co.jp/books?id=s4PfAAAAMAAJ" p45)。
 それとは別に、1444年にインドを旅したNicolo Contiの旅行記"https://archive.org/details/travelsofnicoloc00wint"にも、「中央インドの住民はバリスタと、我々がボンバルダスと呼んでいる機械」(p31)を使っているという記述がある。それ以前から伝わっていた可能性はあるが、遅くとも1440年代には火器がインドに到達していたことは間違いなさそうだ。
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