ライプツィヒ その5

 承前。シュヴァルツェンベルクの当初計画の狙いを説明してきたが、ロシア皇帝が中央部隊に属していたロシア軍予備を引き上げ右翼へと移した時点で、彼の計画は半分崩れた。さらにその計画を骨抜きにしたのがシュレジエン軍を率いるブリュッヒャーだ。
 シュヴァルツェンベルクが15日から16日にかけての夜間にブリュッヒャーに伝えた計画では、北方軍がエルベ左岸にとどまっている場合にシュレジエン軍はエルスター左岸を経由しギューライと一緒になってライプツィヒへ向かうことになっていた。だがブリュッヒャーが15日の早い時間に出した命令は、既にシュヴァルツェンベルクの計画とは異なるものとなっていた。

 「15日の昼11時、ヨルク軍団はブルックドルフとグロス=クーゲルを経てシュコイディッツに行軍し、前衛部隊をライプツィヒへ送る。ランジェロン伯の軍団(サン=プリースト除く)はライデブルク、コックヴィッツ、ヴァーリチュからシュコイディッツ高地のクルスドルフまで行軍し、前衛部隊をリンデナウ[ママ]へと前進させる。ザッケン軍団はハレを経てグロス=クーゲルへ行軍し、そこに予備として配置される。司令部はグロス=クーゲルに行く。
 サン=プリースト将軍はギュンタースドルフへ行軍し、前衛部隊をリュックマースドルフに押し出す。モーリッツ・リヒテンシュタイン公、ティールマン将軍及びメンスドルフ大佐はツヴェンカウに、ギューライはリュッツェンに、その前衛部隊はマークランシュテットにいる。
 10月16日、敵はライプツィヒにおいて全方面から攻撃され、将軍サン=プリースト伯はギューライ将軍と連携する。ヴァルテンブルクの指揮を離れ本日ハレに到着したラウフ将軍は、架橋部隊及び余分な荷物全てとともにハレ近くのザーレ左岸にとどまり、ザーレにさらに2つの橋を架ける。
 ハレの司令部にて、1813年10月15日
 ブリュッヒャー」

 サン=プリーストのみがエルスター左岸を通り、残りは全てエルスター右岸を進むという計画は、北方軍がエルベ右岸に戻った場合の作戦だとシュヴァルツェンベルクは考えていた。だがブリュッヒャーはそうは思わなかったようだ。彼は北方軍がハレへと前進している(つまりエルベの此岸にとどまっている)と聞いた時点で「エルスターの右岸をライプツィヒに向かって前進しなければならない」(p334)と考えたようで、この時点でエルスター左岸のシュレジエン軍はサン=プリーストしかいなくなった。
 15日のおそらく夕方頃、ブリュッヒャーの司令部に属していたオーストリア軍参謀のマーシャル大尉がギューライの下に伝えたシュレジエン軍の配置状況は、その大半がエルスター右岸に集まったものだった(p318)。左岸にいたのはサン=プリーストの4000人だけであり、しかもこの4000人についてもエルスター右岸に渡すよう、ブリュッヒャーからギューライへ連絡している。16日のうちに北方軍が戦列に参加するのは無理だと分かった時点で、ブリュッヒャーは全てのシュレジエン軍をエルスター右岸に集めるつもりになったことが分かる。
 ギューライは急いでこの事実をシュヴァルツェンベルクに伝えた。時間は15日午後8時(p318)。この時点でシュヴァルツェンベルクが思い描いた「ライプツィヒ西方でシュレジエン軍と合流しナポレオンの突破を阻止する」計画はほぼ破綻したと言える。連合軍は彼が思い描いていたのとは逆に戦線を広げ、ライプツィヒの西側より東側に重点を置いた配置に変わっていた。ギューライの部隊は少数の別動隊と化し、リンデナウすら奪えずフランス軍に追い払われた。ボヘミア軍の主戦場はトールらが思い描いていたようにプライセ東岸になった。シュヴァルツェンベルクのアイデアは完全に無に帰した。

 一方的に批判されることの多いシュヴァルツェンベルクの計画にも、実はきちんとした理屈があったことは分かった。彼は単に欠陥のある計画を考えなしに作ったわけでも、ヴォルツォーゲン"https://books.google.co.jp/books?id=7iU4AAAAYAAJ"が言うように「戦略眼のない」(p214)ランゲナウに任せっきりだったわけでもない。むしろ一部の批判者よりは広い視野でトラッヘンベルクプランの実行を図っていたということもできる。
 結果から見れば彼の計画が冴えないものだったのは確かだ。ギューライは孤立し、中央の部隊はコネヴィッツで渋滞し、フランス軍の圧力を一番受けたのはプライセ東岸だった。後の歴史家が安易に彼を批判するだけで済ませてしまうのも、そのあまりにダメな結果だけを見れば分からなくもない。だがシュヴァルツェンベルクは、少なくともウルムでの行動"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56295280.html"を見る限り、マックのように「トップに立つには問題が多い」人物であったとは思えない。
 ではもっと後知恵を排し、シュヴァルツェンベルクがライプツィヒ会戦前に置かれていた立場になって考えた場合、果たして彼の作戦はどこまで正当化できるのだろうか。それとも彼を批判したトールの見解の方が、たとえ後知恵がなくても説得力のある見解なのか。
 トールによる批判の中でも最も大きな争点になるのは「25万人もの軍の退路を遮断するのは不可能事」("https://books.google.co.jp/books?id=8ZNeAAAAcAAJ" p234)か否かという部分だろう。この点について判断するうえでは、ナポレオン戦争の時期に敵の退路を絶って大戦果を挙げた事例がどのくらいあるかを調べる必要がある。
 すぐに思い浮かぶのはもちろんウルム戦役"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56284125.html"。約2万人のオーストリア軍がナポレオンに降伏した戦いだ。シュヴァルツェンベルクがもしあの時の復讐を思い描いていたのなら、ナポレオンの退路を絶ってこれを降伏まで追い込めれば万々歳だっただろう。ただしウルムはあくまで防御施設に立て籠もった敵との闘いであり、ライプツィヒのような野戦になると様相が違ってくる。
 野戦で退路を絶たれて降伏したものとしてはバイレンの戦いがある"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55442206.html"。ここでは2万人が戦い、戦死者を除いても1万7000人以上が捕虜となった。だからこのくらいの数なら退路を絶つ戦略も十分に考えらえる。しかし10万人を超えるほどの大軍についても全く同じことが言えるのかどうかは別問題だ。
 包囲された数として最も多かったのは、思いつく限りでは1811年にクトゥーゾフがドナウ河畔でオスマン軍を包囲した戦いだ。この時は3万6000人が宿営地でロシア軍に取り囲まれ、1ヶ月後には1万2000人まで数を減らして降伏している"http://warfarehistorynetwork.com/daily/military-history/general-mikhail-kutuzov/"。ただしオスマン軍は常に野戦築城をしながら戦うのが特徴であり、機動戦メインのフランス軍と同一視はできない。
 そう考えるとシュヴァルツェンベルクの計画は、むしろ野心的過ぎるものだったと考えた方がいいのかもしれない。10万人を超えるフランス軍の退路を遮って彼らを追い詰めるという方法は、実際に10万人を逃さない包囲網づくりが決して容易ではないことを考えると現実味の高い計画とはいえない。それに包囲に際しては「黄金の橋を残しておけ」というのは、昔から言われていることだ(例えば孫子の圍師必闕"http://kaburen.com/library/sonshi/son08.html"、竹簡本だと圍師遺闕"http://www.geocities.jp/zec_dd/mysonshi.html")。実際、最終的にライプツィヒの戦いは、退路を残されたフランス軍の大敗となった。
 フランス軍が展開していない西側で早期の合流を図り、各個撃破されるリスクを減らそうとした点は評価できるだろう。フランス軍が突破を仕掛けてきた場合、エルスターやプライセといった河川と湿地が防御に役立つ可能性もあった。だから一般に言われているほど明白に欠陥だらけの作戦を、シュヴァルツェンベルクが最初から志向していたとは考えられない。
 だが状況が変わった後も既存の作戦にこだわったのは失敗だったと言えるだろう。少なくともトールの説得でロシア軍がプライセ東岸に移ることが決まった段階で、西側での集結は諦め、リンデナウやコネヴィッツには牽制用の部隊のみを送り残りはプライセ東岸に渡る決断をしておくべきではあった。彼の指揮に問題があるとしたら、計画立案能力の欠如よりも状況に合わせた迅速な決断が遅れてしまった点にあったと考えた方がいいように思う。
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