本当はシュヴァルツェンベルクは何をしたかったのか。前回紹介した命令をもう一度見てみよう。彼はまず北方軍がエルベ左岸(ライプツィヒのある側)にとどまった場合に取るべき行動を命じている。まずシュレジエン軍は一部を除いてエルスターの左岸、つまりギューライと同じ地域に展開し、彼らと一緒にライプツィヒへ向かうことになっている。この兵力は合わせて7万3000人に達する。
中央部隊についてはロシア軍予備も同行する点を除けばこれまでの説明と同じ。右翼部隊はロシア軍予備の増援を受けずに元からある軍勢のみで前進することになっている。兵力はそれぞれ5万2000人と7万2000人で、攻撃開始時刻は全部隊とも16日の午前7時だ。
その特徴は、実際に行われた作戦に比べ、連合軍の展開する戦線が狭く、かつ左(西)に寄っている点にある。ボヘミア軍とシュレジエン軍はエルスター左岸でほぼ合流を果たしており、プライセ―エルスターの西側にほぼ全軍が集まっている。例外はシュコイディッツにいるシュレジエン軍の分遣隊と、プライセ右岸に展開しているヴィトゲンシュタインらの軍勢だけである。
なぜここまで西側に寄せた配置となっているのか。命令の中にある「シュコイディッツからライプツィヒへ行軍する縦隊は彼[ナポレオン]によって容易に粉砕され得る」という一文がヒントになる。エルスター右岸に沿ってライプツィヒへ向かうのは危険だからシュレジエン軍の大半を左岸へ動かし、そちらからライプツィヒへアプローチすべきだと、おそらくシュヴァルツェンベルクはそう考えたのだろう。
その背景にあるのは、ライプツィヒ会戦直前にナポレオンが主力を率いてデューベン(ライプツィヒ北東)にいたという事実だ。ライプツィヒ北東にはフランス軍が広がっており、一方で南西にはほとんどいない。この状況で連合軍が各個撃破されないようにする最も容易な方法が、ライプツィヒ西側でのボヘミア軍とシュレジエン軍の合流。フランス軍と遭遇する前にまずは最も早く集結する方法を考えた結果がこの作戦計画だったと思われるのだ。
加えてデューベンにいるナポレオンがすぐに戻ってこない可能性もある。だからこそシュヴァルツェンベルクはライプツィヒを簡単に奪取できた場合の対応にも言及している。この作戦計画は単にボヘミア軍の配置がどうなっているかだけを考えたものではなく、シュレジエン軍や敵であるフランス軍の状況まで踏まえたうえでの作戦案だったと見るべきだ。
さらに北方軍がエルベ右岸に渡り、主戦場から遠ざかった場合のことまでシュヴァルツェンベルクは考えている。その場合、デューベン方面のナポレオンがなお北方軍に牽制されることを前提に、シュレジエン軍にはエルスター右岸での活動を求めている。彼らをエルスター左岸まで移動させると、今度は北方軍がナポレオンの正面で孤立しかねないという懸念があったからだろう。
しかしこうしたシュヴァルツェンベルクの狙いについてきちんと指摘しているのは、オーストリア側の史書であるBefreiungskrieg 1813 und 1814の第5巻"
https://books.google.co.jp/books?id=8_wJAAAAIAAJ"、Feldzug von Leipzigくらいである(p401-405)。そこでは会戦前にナポレオンが取る策として「エルスターとプライセからザーレへ突破し連絡線を回復する」か「プライセ東岸に位置する[連合軍]右翼を攻撃する」の2つが示されている。
シュヴァルツェンベルクがライプツィヒの西側に主力を集めたのはこのナポレオンによる連絡線への突破を防ぐためであり、プライセ右岸に展開しているヴィトゲンシュタインの軍勢はそれを牽制するうえで役立つものだった。またナポレオンが西への突破を図る際に、ライプツィヒの隘路を避けようとするなら通るべきルートはコネヴィッツになる可能性が高い。だからオーストリア軍主力はここに集結した。ランゲナウがこの地形を容易に突破できると請け負ったことも、シュヴァルツェンベルクの作戦立案に影響した。それに地形が困難であれば、むしろそれはナポレオンによる突破を防ぐのに役立つ。
もちろんナポレオンが主力を連合軍右翼に差し向けてくれば困った事態になる。だがこの時点でのフランス軍の士気低下から見て、その可能性は少ないとシュヴァルツェンベルクは考えていたようだ。たとえヴィトゲンシュタインが攻撃されても彼らの右後方からはコロレードとベンニヒゼンが接近しており、後退さえすれば増援が得られる状況にある。西方への突破を防ぐことこそ、これまでの準備が全て実を結ぶ瞬間であり、皇帝の脱出を妨げるのが戦争の究極の目的だと、この本は指摘している。
それでもロシア側は彼の計画に反対し、その決定には時間がかかった。シュヴァルツェンベルクはその間に中央部隊が前進する予定の道を自ら偵察したが、ガウチュの先で敵騎兵を見かけたためそれ以上は前進できなかったという(p405)。最近の雨によって増水していたプライセを自らの目で確認できなかった彼は、結局ランゲナウの証言を信じるしかなかった。増水していなければプライセは渡河の容易な川だったと、この本には書かれている。
実際には連合軍の攻撃前にナポレオンは既にライプツィヒに到着しており、デューベンにいた部隊も続々とこの町に向かっていた。それでも全方面から同時に攻撃をかければ、各部隊がナポレオンの圧力によって危機に陥る可能性は少ないと見て、シュヴァルツェンベルクは当初計画のまま進めようとしたようだ。コネヴィッツの橋を奪えば「ナポレオンはほぼ絶望的な立場に置かれる」(p406)というのが彼の見立てだった。
この見解に真っ向から異を唱えたのがロシア軍のトールだ。彼の意見はミハイロフスキ=ダニレフスキの本"
https://books.google.co.jp/books?id=8ZNeAAAAcAAJ"に載っている(p233-234)。彼はボヘミア軍とシュレジエン軍、北方軍の合流を急ぐ必要があることは認めつつ、そのために軍を河川によって分断させることは自らの強みを失うと指摘。またコネヴィッツの渡河には時間がかかり、その間にナポレオンが北方軍やシュレジエン軍を攻撃しても支援できないと述べている。
トールに言わせれば「[シュヴァルツェンベルク]閣下の計画にあるように25万人もの軍の退路を遮断するのは不可能事だ」(p234)ということになる。また今後の作戦においてはベンニヒゼンとコロレード伯の軍勢到着を基盤に据えるべきだとも指摘。シュヴァルツェンベルクがやろうとしているライプツィヒ西側での合流を諦め、むしろ東側で戦線を伸ばすことを推奨している。
彼はシュヴァルツェンベルクが重視した「ナポレオンによる西方突破への対処」にはそもそも無理があると考え、より機動的に動くことができるプライセ東岸に兵力を集め、どのような事態であっても対応しやすくすることを重視した策を提案したと言える。もちろんその背後には、自分たち(トールの場合はロシア軍)こそが勝利において決定的な役割を果たしやすい配置にしようという狙いもあっただろう。いずれにせよ、両者の見解の相違は最終的にアレクサンドルによるロシア軍予備の引き上げにつながった。
以下次回。
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