承前。批判を浴びるような計画をシュヴァルツェンベルクが立案し、しかしその実行が上手くいかなかったために早々に変更を強いられた事実は、オーストリア側の史料からも裏付けられる。もちろん彼もギューライに対しメーアフェルト支援を命じるなど各部隊の連携に努めるよう求めてはいるが、その実現が困難だったのは間違いない。
ヴォルツォーゲンの回想録"
https://books.google.co.jp/books?id=7iU4AAAAYAAJ"には、ランゲナウに関する長々とした説明が書かれている(p213-214)。彼によればこの情報はランゲナウ自身とシュヴァルツェンベルク周辺から数年後に得たものだそうで、そこには確かにランゲナウの野心についての言及がある。「ランゲナウは自らの野心的計画を使わないまま素晴らしい機会を見送りたくはなかった。それはオーストリア軍内における彼のより高い地位への道を開き、(1)決定的な勝利を(2)オーストリア兵のみで達成するという2つを達成するのが目的だった」(p214)とヴォルツォーゲンは記している。
しかしここまで紹介してきた説明には問題点がある。本当の当事者、つまりシュヴァルツェンベルクの言い分が全く出てこないことだ。彼がこの作戦を立てたことについて論拠を全く説明していないのであれば仕方ないのだが、実はそんなことはない。彼は会戦が始まる前にどんな狙いで計画を立てたのかについてきちんと説明した文章を残している。問題は同時代人どころか歴史家の大半に至るまでそれを無視している点にある。
「アルテンブルク、1813年10月14日。ブリュッヒャー将軍はハレ近くにとどまり、主力軍[ボヘミア軍]の移動と合流しライプツィヒの敵に対して合同攻撃をしかける決断をするが、それは当面、王太子の軍[北方軍]が行う移動次第となる。彼らがもしエルベを[右岸へと]渡れば、現在のライプツィヒに対する攻勢において彼らに頼ることはできなくなる。もし彼らがエルベの此岸にとどまれば、少なくとも示威行動を行うことはできる。その場合、我々のライプツィヒへの移動は、攻勢の準備と実行という2つに分けて行われる。前者は両軍のしっかりとした連絡の確保であり、これは明15日には以下の配置によって達成される。
ブリュッヒャー将軍の大半はマーゼブルクを通るあらゆる道を使って行軍する。前衛部隊は(マーゼブルクからライプツィヒへの街道上にある)ギュンタースドルフの高地と、シュコイディッツへ押し出す。我々は敵に近いところにいるため、皇帝ナポレオンが主力とともに引き返してライプツィヒへ行軍するという全くあり得なくはない出来事に備えるため、この移動が必要となる。シュコイディッツからライプツィヒへ行軍する縦隊は彼によって容易に粉砕され得る。
ギューライの第3軍団はリュッツェンにおり、前衛部隊はマークランシュテットでブリュッヒャーの前衛と接触する。この部隊の派出した2個大隊はケーゼンの橋を、他の2個大隊はヴァイセンフェルスの橋を占拠する。
メーアフェルト伯の軍団、オーストリアの予備、ロシアの近衛隊及び予備はペガウの背後に集結する。中将モーリッツ・リヒテンシュタイン公はティールマン将軍及びメンスドルフ大佐とともにツヴェンカウへと押し出す。ロシア擲弾兵軍団は第3胸甲騎兵師団はエシュペンハインでヴィトゲンシュタイン将軍と合流し、クレナウ将軍はポムゼンの陣地にとどまる。ヴィトゲンシュタイン将軍は彼を歩兵2個旅団、騎兵1個旅団で増援し、それらはクレナウ伯の予備としてポムゼンにとどまりグリンマ街道を見張る。
将軍コロレード伯はペーニヒに行軍する。
実行:1813年10月16日の配置
ブリュッヒャー将軍の軍は夜明けにマーゼブルクからライプツィヒへの街道上にあるギュンタースドルフに集結する。そこから午前7時に大半とともにライプツィヒへ押し出す。シュコイディッツの分遣隊はパーテ川(?)に架かる橋を奪うよう試みるが、ハレへの連絡と退路の両方を同時に失ってはならない。
ギューライ伯の軍団はモーリッツ・リヒテンシュタイン公、ティールマン将軍及びメンスドルフ大佐と夜明けにマークランシュテットに集結する。彼らはそこを午前7時に出発しライプツィヒへ行軍する。彼らはこの日、ブリュッヒャー将軍から指示を受ける。
メーアフェルト伯の軍団、オーストリア軍予備、ロシア近衛隊は同時期にツヴェンカウに集結し、朝7時に出発しライプツィヒへ行軍する。
将軍ヴィトゲンシュタイン伯は敵を7時に攻撃し、彼らをライプツィヒへと押す。クレナウ将軍はヴィトゲンシュタイン伯の配置に従いながら同時に攻撃を始める。
もしライプツィヒを奪取できたなら、ブリュッヒャー将軍の軍は左に転じデューベン街道とツェルビッヒ街道を監視する。ギューライ伯の軍団はオーストリア軍主力と合流し、アイレンブルク街道とヴルツェン街道上に位置する。ヴィトゲンシュタイン伯の軍団はグリンマ街道に配置する。
コロレード伯の軍団は16日午前10時には到着するようペーニヒからボルナへ行軍する。
最初にライプツィヒに侵入した軍団は2個旅団及び2個騎兵連隊で町を占拠し、彼らは師団長に指揮され町の秩序を保つ。
退却する場合はブリュッヒャー将軍の軍はマーゼブルクへ、ギューライ伯の軍団とリヒテンシュタイン、ティールマン及びメンスドルフはヴァイセンフェルスとナウムブルクへ、主力軍はペガウを経てツァイツへ、ヴィトゲンシュタイン将軍とクライストはアルテンブルクへ、クレナウとコロレードはペーニヒへ向かう。だがもし王太子の軍がエルベを渡った場合、殿下には16日夜明けにムルデ河畔で示威行動を行って敵の注意を引きつけ、ブリュッヒャー将軍の左翼を激しく支援するよう要請する。この場合、ブリュッヒャー将軍の軍は、[16日]7時にライプツィヒあるいは敵が駐留しているであろう方角をシュコイディッツから攻撃できるよう、15日のうちに前進しておく。ただしサン=プリースト将軍は、そうでない場合にブリュッヒャー将軍の軍に適用される配置に向けてマーゼブルクから前進する。
最後にもし、信じがたいがにもかかわらず起こりうる事態として、敵がなおエルベへと突進しライプツィヒとその地域を1個軍団のみでカバーしている場合、主力軍は16日に既に優位となっている攻撃を実行し、後に限られた戦力で有利な状況を追求し、一方ブリュッヒャー将軍はシュレジエン軍とともに左へと行軍し、主力軍はその移動に可能な限り早く追随する」
p323-326
以下次回。
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