ライプツィヒ その2

 承前。ライプツィヒの戦いに際してシュヴァルツェンベルクが立てた作戦計画に関する話の続き。現在、色々な文献で確認できるのは、会戦前日の15日にペガウの司令部で彼が書いたものだ。この文章は古いものとしては1820年出版のこちら"https://books.google.co.jp/books?id=Jx9kAAAAcAAJ"のp473、1839年出版の本"https://books.google.co.jp/books?id=mmRVAAAAcAAJ"のp196など様々なところで読めるのだが、以下ではAsterが1852年に出版したDie Gefechte und Schlachten bei Leipzig im October 1813"https://books.google.co.jp/books?id=n05DAAAAcAAJ"を基に翻訳する。

「合意に基づき、ブリュッヒャー将軍の軍は朝7時にシュコイディッツから出発し、ライプツィヒへと行軍する。
 ギューライ伯の第3軍団は朝6時にリヒテンシュタインの軽師団及びティールマン将軍とランシュテットで合流する。おそらくブリュッヒャーの軍のサン=プリースト伯の縦隊も同じ道を通り、第3軍団と同じ目的で合流する。
 [サン=プリーストの合流の有無にかかわらず]どちらにしても伯爵ギューライ砲兵大将は7時にマークランシュテットを発し、正面にいる敵を攻撃してライプツィヒへと移動する。この縦隊の主要な目的は主力軍とブリュッヒャー将軍の軍との連絡を維持し、そしてライプツィヒへの攻撃によって代わりに他の縦隊の攻撃を容易にすることにある。従って彼らはメーアフェルトの縦隊の攻撃を容易にするため、可能な限り早くリンデナウから右翼へ部隊を派出する。
 ギューライ伯の縦隊が多大な数的優位のために押し戻された場合、彼らはメルゼンからツァイツへと退却する。もし彼らがメルゼンからも退却したなら、ヴァイセンフェルスにいる2個大隊とナウムブルクの2個大隊はそのことを知らされ、同じく即座にツァイツへ下がらねばならない。
 伯爵メーアフェルト将軍の第2軍団は、6時にツヴェンカウで攻撃縦隊の準備を整える。彼らは12ポンド砲中隊を1つ、列から連れて行く。その直後にはノスティッツ将軍の騎兵が、そしてビアンキ師団と、第2軍団の砲兵予備、そして最後にヴァイセンヴォルフ師団が続く。7時ちょうどにヘッセン=ホンブルクの世継ぎ公が指揮するこの縦隊は出発し、コネヴィッツへ行軍し、橋と町を奪って、そしてもし成功したなら大隊縦隊で行軍を続け、メーアフェルト軍団が第1列、ビアンキが第2列、そしてヴァイセンヴォルフが第3列を形作る。
 伯爵ノスティッツ将軍の騎兵は縦隊が行軍している間、可能な限り遠くまでその右翼について目的地の直前までその場所を占める。コネヴィッツを奪取した際には伯爵ノスティッツ将軍は可能な限り急いでメーアフェルト軍団の右翼に達し、そこで連隊ごとに半ディヴィジョンで組んだ半距離の密集縦隊で市松模様の陣形で行軍する。
 コネヴィッツ攻撃を容易にするためビアンキ師団の2個大隊は割り当てられた騎兵とともに朝7時にヴィーデラウを発しクナウトハインとクライン=チョヒャーを超えて行軍し、ツヴェンカウからライプツィヒへの街道上にあるコネヴィッツ森を通り抜ける。もし到着時にコネヴィッツがなお敵に占拠されていたなら、彼らは背後からそこを攻撃する。
 コネヴィッツ橋を利用できる状態にしておくため、伯爵メーアフェルト将軍は工兵半個中隊と大型の仮設橋を受け取る。
 ロシアの全予備騎兵及び予備歩兵は、ロシア近衛隊及びプロイセン近衛隊とともに午前4陣に陣地を発し、プルガーを経てレータに行軍し、そこでプライセを渡って縦隊で右岸に布陣し、ヴィトゲンシュタイン伯とヘッセン=ホンブルクの世継ぎ公の双方にとって同様にまとまった予備となる。この部隊の騎兵も市松模様の布陣で歩兵の右翼に集まる。指揮官であるバルクライ[=ド=トリー]はプライセ右岸の全縦隊の指揮を執る。伯爵ヴィトゲンシュタイン将軍はクレナウ軍団及びクライスト軍団とともに午前7時に対峙する敵を攻撃し、ライプツィヒに向かって押し出す。
 ロシア擲弾兵軍団及びロシア第3胸甲騎兵師団は主に右翼の予備となるが、最も緊急の事態にのみその支援を利用できる。
 攻撃に際して私は大隊縦隊及び連隊縦隊を市松模様に配置することを推奨する。歩兵と騎兵だけでなく砲兵中隊も市松模様の隊形で前方や後方へ移動すべきである。
 退却しなければならない場合にはヘッセン=ホンブルクの世継ぎ公の縦隊はペガウ経由でツァイツへ、ヴィトゲンシュタイン伯とクライスト将軍の縦隊はアルテンブルクへ、伯爵クレナウ騎兵大将の縦隊はペーニヒへ、ロシア軍予備と近衛隊は状況に応じてツァイツあるいはアルテンブルクのどちらかへと向かうこととする。
 コロレード伯の第1軍団はボルナから行ける限り遠くまで前方へ押し出し、クレナウ伯の予備となる。彼らの退路はケムニッツになる。
 伯爵ベンニヒゼン将軍の軍は翌日コールディッツに到着し、それからグリンマ及びヴルツェンへと押し出す。
 ロシア近衛隊の2個大隊はペガウにとどまりエルスターに架かる橋を占拠する。
 オーストリアの砲兵予備はさらなる指示があるまでペガウにとどまる。
 あらゆる荷物は例外なくツァイツへと戻され、ゲラ街道の背後の地に待機する。
 縦隊に困難をもたらす車両は連れて行ってはならない。
 私自身は会戦開始時にはヘッセン=ホンブルクの世継ぎ公の縦隊にいるが、後にはロシア軍予備を訪ねることもあり得る。
 左翼における負傷者の集結地はツヴェンカウとなる。
 全軍団指揮官は会戦の間、例外なく毎時間私に報告を送ること。
 ペガウの司令部、1813年10月15日
 (署名)シュヴァルツェンベルク」
p320-323

 事前に出した命令だけでなく、事後の報告も同じ。19日にレータで書かれたもの("https://books.google.co.jp/books?id=aQY8AQAAIAAJ" p1509)にもギューライがリュッツェンからリンデナウへ、メーアフェルトとオーストリア軍予備がペガウからツヴェンカウ経由でコネヴィッツへ、そしてヴィトゲンシュタインら右翼がリーベルトヴォルクヴィッツへ向かったと書かれている。
 それだけではない。フランス軍が連合軍右翼を圧倒しようとしたこと、コネヴィッツを「大砲と歩兵で橋と堤防を守っており、地形のため[連合軍の]大砲がをそこまで持ち込めなかった」こと、そして敵が中央と右翼に大軍を差し向けて来たのを見て、シュヴァルツェンベルクが予備をプライセ右岸に移す決断をしたことがはっきり書かれている。
 オーストリア軍の公式戦史"https://books.google.co.jp/books?id=RFtjAAAAcAAJ"にも、「プライセ河畔はとてもぬかるんでいたため迂回ができなかった」(p7)という記述があり、シュヴァルツェンベルクがその状況を見て攻撃計画を変更したと書かれている。彼の命令が実際には実現困難なものであったことは間違いないようだ。
 ちなみにジョミニは著作"https://books.google.co.jp/books?id=m1wEAAAAQAAJ"の中で、ライプツィヒの戦いにおいてコネヴィッツ南方にあるガウチュ村の尖塔からの光景をシュヴァルツェンベルクの副官に見せて「公がプライセとエルスター間の深淵から抜け出すよう説得した」(p526)と書いている。
 Asterの著作"https://books.google.co.jp/books?id=GIC3O5BwXz4C"にもこの話は載っており、それによるとシュヴァルツェンベルクの副官はプライセ右岸の連合軍が窮地にあると伝えたそうだ(p393)。19日の報告書に敵の大軍が右翼へと迫っているのを「見た」という記述があるのは、もしかしたらこの尖塔に登った副官からの報告を示しているのかもしれない。

 以下次回。
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