ライプツィヒ その1

 ドレスデンにおけるシュヴァルツェンベルク絡みの話についておかしな説が広まっていることは前に指摘した"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56630711.html"。ただシュヴァルツェンベルクに対する批判はドレスデンの戦いだけにとどまらない。同年10月に行われたライプツィヒの戦い"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%92%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84"に関してもシュヴァルツェンベルク批判が存在する。
 例えば英語wikipedia"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Leipzig"には、ロシア皇帝が彼の計画について「ナポレオンの軍を完全に包囲することも、あるいは少なくともその軍を決定的に撃ち破って破壊することもできない」点を批判したという記述がある。こちら"http://www.napolun.com/mirror/web2.airmail.net/napoleon/Leipzig_battle.htm"にはアレクサンドルがシュヴァルツェンベルクに対して「ロシア兵は(中略)彼らがいるべきところへ行き、他へは行かない」と言い放ったことが指摘されている。
 一体シュヴァルツェンベルクのどこが批判されているのだろうか。分かりやすく書かれているのはMaudeのThe Leipzig Campaign"https://archive.org/details/cu31924024321782"だろう。それによるとシュヴァルツェンベルクはザクセン(フランスの同盟国)から連合軍に転じたランゲナウの地形に関する知識に頼って戦い前の布陣を決めたのだが、15日正午に出された最初の配置は「連合軍全軍を3つの指揮権に分断するという異様な影響を持つもの」(p251)だったという。
 ミュラの部隊がいる陣地を攻撃することになっていた右翼の7万2000人はプライセ川の東に布陣。ミュラの側面が位置するコンネヴィッツ村を攻撃すべく5万2000人がプライセとエルスター間の湿地がちな地域に配置され、ギューライ指揮下の1万9000人はさらにその西側からライプツィヒ街道が通るリンデナウの隘路を攻撃することになっていた。
 「この配置の欠陥は紛れもなく明白だったため、バルクライ=ド=トリー、ディービッチ、トール及びジョミニを含むロシア軍幕僚のほぼ全員が修正を促すべくシュヴァルツェンベルクに提案した」(p252)。だが上手く行かなかった彼らは最後の手段として皇帝アレクサンドルを担ぎ出した。それでもなおシュヴァルツェンベルクは計画を変えようとしなかったので、ロシア皇帝は中央部隊の指揮下にあったロシア軍及びプロイセン軍の近衛部隊を引き抜き、これを右翼に回したという。
 もっと手厳しい批判をしているのはPetre。彼はNapoleon's Last Campaign in Germany"https://archive.org/details/napoleonslastca00petrgoog"で「ドレスデンの教訓は忘れ去られた。軍は、ドレスデンでプラウエン渓谷に分断されたように、ここではエルスターとプライセのぬかるんだ峡谷に分断された」(p327)とシュヴァルツェンベルクの計画を批判。アレクサンドルの注文が付いた後にどう計画が変わったかについて箇条書きで説明している(p326-328)。
 修正後の各部隊の配置はこちらの図"http://napoleonistyka.atspace.com/map_karte_LEIPZIG_1813.png"を見るのがいい。兵力を増やした右翼は9万6000人まで増え、一方で中央(図のMerveldtとhungarians、grenadiers)は2万8000人まで減少した。エルスター川の西にはギューライの部隊のみがいる。一方、フランス軍は南方に振り向けた戦力の大半を連合軍右翼と対峙させており、この方面が主戦場であったことが分かる。

 シュヴァルツェンベルク批判は別に英語文献だけに見られるものではない。例えばThiersもHistoire du consulat et de l'empire"https://books.google.co.jp/books?id=ly5KAAAAcAAJ"(英訳"https://books.google.co.jp/books?id=Sk0YAQAAIAAJ")の中で、シュヴァルツェンベルクの当初の計画に対して「それに反対する優れた理由があった(p476、英訳p220)と指摘。政治的にはいいものであっても軍事的には危険な計画だったとの見方を示している。
 シュヴァルツェンベルクの当初計画にも「フランス軍の背後にたどり着く」というメリットはある。だが一方でナポレオンは河川を利用して連合軍中央の前進を少数で食い止められるうえ、相対的に弱体な連合軍右翼に襲い掛かってこれをプライセ川へ追い込むことが可能でもあった(p476、英訳p219-220)、というのがThiersの説明する計画の欠点だ。
 もちろんジョミニも批判者の1人。Vie politique et militaire de Napoléon"https://books.google.co.jp/books?id=MrcAAAAAYAAJ"(英訳"https://books.google.co.jp/books?id=pGhLAQAAMAAJ")の中で「シュヴァルツェンベルクは当初、彼の予備と軍の主力を、狭い橋を通ってしか我が[フランス]軍の真ん中に出撃することができないプライセとエルスターの間にある袋小路に投入するという、奇妙なアイデアを持っていた」(p448-449、英訳p195)と、計画の問題点に言及している。
 Lecomteの書いたジョミニの伝記"https://books.google.co.jp/books?id=NppCAAAAYAAJ"によると、計画立案の現場にいた彼は「軍の半分が既にもっと近いところで渡河しているのに、15万人の敵のど真ん中で強行渡河をするという危険と困難を探し求めることに対し、後世の誰が敢えて自主的に我々を正当化してくれるだろうか」と言ってのけたそうだ。口が悪く敵が多いと言われた彼なら、本当にそんなことを話したかもしれない。
 ドイツ語文献ではBernhardiの書いたトールの伝記"https://books.google.co.jp/books?id=bHcIAAAAQAAJ"がある。「彼ら[シュヴァルツェンベルク]はリンデナウからライプツィヒを征服しようというのだ! どうやったらそれが可能だと考えられるのかは全く不可解なままである。加えてシュヴァルツェンベルク公は自身でプライセとエルスター間の地域を15日に訪れ、それでもなお自らの計画にこだわったのだ! 彼が全面的に他者の判断に、ランゲナウの主張に依存していることを示す証拠であり、この地域の様子は彼に何も教えなかったのだ!」(p422)と、こちらもかなり熱のこもった批判となっている。
 FriederichのGeschichte des herbstfeldzuges 1813"https://archive.org/details/bub_gb_aOkaAAAAYAAJ"も基本的な姿勢は同じ。それによればトールはシュヴァルツェンベルクの作戦が不適切どころか危険であるとロシア皇帝を説得し、ディービッチとジョミニもそれに同調したという。ジョミニはシュヴァルツェンベルクの配置について「可能な限り最も決定的な勝利を得るため、ナポレオンが自ら口述したと言われても信じられる」(p11)ものだと強烈な皮肉を述べたそうだ。

 かように評判の悪いシュヴァルツェンベルクの当初作戦計画なのだが、実際に地図を見てもその配置が不格好なものであることは否定できない。まず左翼のギューライ軍団は他の部隊とあまりに離れすぎており、連携ができるようには見えない。兵力も少なすぎ、孤立した状態でもし敵の攻撃を受ければひとたまりもないように見える。
 逆に中央のオーストリア軍は狭い地域に大軍が集まりすぎに見える。しかもこの部隊の進む先を見るとそこにあるのはジョミニの言う通り袋小路。デーリッツやコネヴィッツでプライセ川を渡ればその先には平野が広がるものの、狭い隘路を抜ける際に間違いなく渋滞を起こしそうな地形だ。おまけに川の対岸にはフランス軍が待ち構えているわけで、少数の敵に足止めされる可能性は高い。
 そして右翼。こちらは逆にライプツィヒ南方の平野が広がっている地域だ。ライプツィヒ会戦の2日前にはリーベルトヴォルクヴィッツで両軍が既に遭遇戦を演じているのだが、その兵力はBodart"https://archive.org/details/bub_gb_Eo4DAAAAYAAJ"によれば連合軍が6万人、フランス軍が5万人(p460)とかなりの数にのぼる。大軍を展開するのに望ましいのはむしろこの右翼の方であり、逆に敵が大軍を送り込んできた場合には味方が窮地に陥りかねない地形だ。
 そして困ったことに、この命令に関しては「事実に反する」という批判はできない。何しろオーストリア軍のアーカイブに残されているシュヴァルツェンベルクの作戦計画が様々な文献に引用されており、そこに書かれている内容がまさに批判されている通りのものだからだ。この計画については長くなったので次回に述べる。
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