本体は銃身、薬室、尾部に分かれており、銃身は長さ46.8センチ、薬室には0.2センチのタッチホールがあり、尾部はラッパ状になっている。薬室内に直径0.9センチ(Andradeなどは9センチとしている)の弾丸及び0.1キログラムの火薬が入っていたそうだ。銃は銅器や焼き物と一緒に見つかったのだが、後者は武威市内の別の場所で発見されたものと「相同或類似」していた。そしてその別の場所で見つかった焼き物に、西夏の元号である「光定四年」(1214年)の年号が書かれていたという。
この銃が西夏銅火銃と呼ばれるようになったのは、この焼き物のためだ。推定年代が1214~1227年となっているのも、焼き物に書かれた年号から西夏の滅亡までの期間を示したものだからである。銅製の鋳造品であり、元の銅銃と比べて「制作粗放」で「銃体表面凹凸不平」だという。こうした加工品質の低さもあいまって、世界最古の金属製銃砲ではないかと推定されているわけだ。
さらに2002年には寧夏の「収蔵愛好者」が西夏銅火銃と外見の似た銃を持ち込んだ。1997年に銀川ホテル近くで出土したとされるこの銃には錆が浮いている一方、中にはまだ火薬が残っていたという。一番の違いはサイズで、全長24センチ、肉厚は0.8センチ、重さ1.5キログラムで、銃身は長さ13センチ、内径2.2センチ。薬室部分は長円形で長さ5センチ、直径4.6センチだがタッチホールは塞がっている。尾部はラッパ状で長さ6センチ、終端の口径は4センチだ。
もう一つはサイズだ。13世紀後半以降に出土した銃は、例えば「直元捌年」銃は長さ34.6センチ、阿城銅銃は34センチ、「元大徳二年」銃は34.7センチ、通県銃が36.7センチで、西安銃が26.5センチだ。長さ100センチに達する西夏銅火銃のサイズは、いくら見た目が低品質で素朴なものとはいえ大きすぎる。これまた他の出土品と比べて隔絶しているのだ。
もちろん2002年に持ち込まれた小サイズの銅火銃は他の古い銃砲と似た大きさではある。だがこの銃は収集家の持ち込んだものであり、出土時の状況がはっきりしないという弱点がある。つまり本当に出土したものかどうかすら分からないし、発掘品だとしても西夏時代のものと推定できるだけの条件があったかどうかは不明。西夏時代とされる要件を揃えているものは大きい方だけだ。
だが西夏にはない。上で紹介した1083年の「蘭州の戦い」にしても、実は續資治通鑑長編"
https://archive.org/details/06065699.cn"で北宋の皇帝が「西賊」対策として「頒弓箭火砲箭百萬有餘」(78/139)とあるのが論拠。要するに火薬兵器を持っていたのは北宋側であって西夏側ではない。西夏で最古の金属製銃砲が見つかるというのは、ことほど左様に違和感があるものなのだ。
上に述べた違和感は、一つ一つだけならそう気にしなくてもいいかもしれない内容と言える。だがこれだけ多数揃うと、ベイズ推定をする際にもそれだけマイナス要因になる。一方、西夏銅火銃が出土した時の状況に関する説明は、読む限りそうおかしなものではない。一緒に出土した焼き物などを含めて考慮すれば、そりゃこの銃が西夏時代のものと推定したくなるのも分かる。
西夏銅火銃に関しても、同様の可能性が残る。何らかの理由で西夏時代の焼き物と、後の時代に製造された銃が一緒に埋まり、それが20世紀になって発掘されたのかもしれないのだ。だからこの銃を根拠に金属製銃砲の製造が13世紀前半、ことによると1200年頃まで遡ると主張する"
https://doi.org/10.1017/S1356186313000369"のは、ちと勇み足ではないかと思う。同時代のものと思われる出土品がもっと増えてから、そうしたことを考えるようにした方がいいだろう。
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