以下は思い付き。
だがそれならなぜ世の中に道徳だの宗教だのが存在するのだろうか。意味が個々の人間の中にしか存在し得ないのだとしたら、普遍を唱える宗教や道徳はいったい何を論拠にそんなことを主張しているのか。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」と言われるような考えを他人に押し付けたがるおせっかいが始めたのが道徳や宗教だとして、ではそれらを受け入れる人がこれだけ多いのはなぜだろうか。
こちら"
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_religious_populations"によれば世界にはキリスト教徒は24億人、イスラム教徒が16億人、ヒンドゥー教徒が11億5000万人もいる。もちろん無宗教者、無神論者も最大で11億人存在するわけだが、では彼らが全員道徳を無視しているかというとそんなことはあるまい。無宗教でも道徳的に生きている人間は大勢いるだろうし、「生きる意味なんてない」と思っている人間だって、それを理由に非道徳的に振る舞うことはほとんどない。少なくとも世間の道徳に歩調を合わせることが無意味と思っている人はほとんどいるまい。
では無神論者や「生きる意味がない」と思っている者でも受け入れる道徳の中身はどんなものだろうか。1つヒントになりそうなのが「4枚カード問題」"
https://sojin.kyoto-math.jp/wason.html"だ。「片面が母音ならそのカードの裏は偶数でなければならない」というルールが成立するためにめくるべきカードを選ばせる問題だが、正答率が低いことで有名らしい。しかしこれが日常的なテーマ、例えば「アルコール飲料を飲んでいるならば、20才以上でなければならない」という問題だと、どれをチェックすればいいかの正答率が極めて高くなる。
抽象的な質問だと間違える人が、「社会が守るべきルールに反している者を見つけ出す」という具体的な質問になると突然に高い正答率を出すのは、こうした抜け駆け行為を見とがめる高い能力が我々ホモ・サピエンスに備わっていることを示す証左と認められる。ではなぜ我々は抜け駆け行為を見とがめることに長けているのだろうか。考えられるシチュエーションの1つが、抜け駆けが個人に利益をもたらす一方でその個人が属する集団にデメリットを及ぼす場合だ。
4枚カード問題から分かるのは、ヒトが他人の抜け駆けを見抜く能力を育てるような淘汰圧を受けてきた可能性であり、そうした淘汰圧がかかる条件は「抜け駆けをなくした協力が包括適応度の向上に役立つ」ことである。逆に言うなら、抜け駆けを許せば「協力」が持つ力が失われることを意味する。抜け駆けがあっても包括適応度が下がらないなら無理に抜け駆けを見つけ出す必要はない。一方、誰もが抜け駆けばかりして協力をしない状態になればヒトはここまで繁栄しなかっただろう。「協力」と「抜け駆けに対する罰」が揃って、初めてヒトの高い包括適応度が達成できたと考えられる。
ホモ・サピエンスが広く受け入れている道徳の正体は、この「協力を維持するための進化的な適応」に基づいているのではないだろうか。しばしば言われる「他人に迷惑をかけない」という姿勢は、他人を犠牲にする可能性が高い「協力体制下おける抜け駆け」に対する歯止めとなる。人々がしばしばフリーライダーに対して強い批判を浴びせるのも、それが協力を維持するために必要な罰則につながりやすいからであり、そうしなければ包括適応度が下がる。ダーウィン的な進化における強い淘汰圧こそが「道徳」を生み出したと考えるのは、それほど無理があるとは思えない。
もちろんこうした「道徳」の中身は時代や場所によって変わる。いくら協力が重要だと言っても個々人の自律的な行動を全部禁止するのは不可能だし、そうした利己的な動きをどこまで認めるかは常に揺れ動いている。アサビーヤの高い時代には自らを犠牲にして社会に貢献することが高く評価されても、平和と安定によってアサビーヤが低下すれば利己主義を褒めたたえる人間も出てくるし、それが一定数の人に受け入れられるケースも出現する"
https://en.wikipedia.org/wiki/Atlas_Shrugged"。
最近出版された本"
https://www.amazon.co.jp/dp/4062884577"はこの世界神話学についてより詳しく紹介しているのだが、そこで示されている(Witzelではなく)本の著者の見解によればローラシア神話の成立時期は「せいぜい1万年前、あるいはそれ以降」であり、その内容は「古代文明の成立と密接に関係している」(p238)という。つまりローラシア神話は農業社会に適応したものであり、ゴンドワナ神話はそれ以前の狩猟採集社会で育まれた、という主張だ。
ローラシア神話の特徴は明白なストーリーが存在することであり、「筋がはっきりしていると同時に楽しみやすい」(p16)。そのため歴史の中で何度も再生され、最近も指輪物語やスターウォーズの基本的な筋立てとして利用されている。一方ゴンドワナ神話にはそういったストーリー性が欠如しており、むしろエピソードの寄せ集めのような存在だ。世界の創造などは語られず、人間と動物、あるいは人間と自然現象の間の区別も明確ではない。
狩猟採集社会であってもホモ・サピエンスは互いに協力していた。そこでは「乱暴やズルは最後には損をするという教訓」が育ちやすい淘汰圧がかかったことだろう。構成員が全員顔見知りであるような社会では、4枚カード問題のような抜け駆けを見抜く能力は大きな意味を持つ。そしてそういう社会で成立したモラルや慣習こそが「ゴンドワナ型神話の基盤をなしていた」(p265)というのが著者の主張だ。神話がバラバラのエピソードに見えるのも、必要なモラルのための教訓話を寄せ集めたようなものになっているからかもしれない。
一方、ローラシア神話は違う。農業社会成立とそれに伴く格差の拡大、複雑化した社会の全てを説明し、支配者たちの正統性を主張するためにはただの教訓話では足りない。面白いストーリーで聴衆を引き付けると同時に、神話を通じて「宇宙と人間社会の動きを一貫した秩序ある、調和した方法で描く」必要が出てくる。そうした神話には「共通の、潜在的でポジティブな、秩序立てる力が働いている」のだが、それは「個人では制御できない力であり、個人のためではなく社会の調和のために働く」(p184)。こうした神話を通じて、大きすぎて互いの顔を知らないような集団でも個々人からの協力を動員することが可能になるというわけだ。
そして大きなサイズの協力しあう集団は、小さいサイズのものに比べれば強く生き残りやすい。つまり神話の進化もまた生物進化の影響を受けており、それは宗教や道徳の起源とも関連していると考えることができるのではないだろうか。
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