傭兵の物語

 Alistair Nicholsの"Wellington's Mongrel Regiment"読了。以前記したChasseurs Britanniquesについてまとめた本だ。著者は何年もかけて"as a hobby"としてChasseurs Britanniquesの史料を集めたらしいので、おそらくただのオタクだろう。何となく親近感が湧いてくる。
 この本を読む限り、Chasseurs Britanniquesが北米で戦ったという説"http://www.cherylsawyer.com/history-Chase1.htm"は誤りである。「いくつかの史料で断言しているにもかかわらず、連隊[Chasseurs Britanniques]の一部がそこ[北米やカリブ海]へ実際に送られたことはなかった」(Nichols, p170)。著者によると外人部隊の2個独立中隊がアメリカに送られ、そこでCanadian Chasseursと呼ばれたのが混乱の原因だという(Nichols, p179)。
 では彼らはどこで戦ったのか。1801年の連隊発足から1810年までは地中海(マルタ、エジプト、シチリア、カラブリア、部隊の一部はイオニア諸島)で、1811年から部隊が解散した1814年まではイベリア半島で主に戦っていたようだ。英国本土に送られ、英仏海峡にあるジャージー諸島に駐留したこともあったが、期間は極めて短かった。
 初期の頃は守備隊任務が大半で、あまり目立った戦歴はない。その中で彼らが巻き込まれた大きな戦闘は1807年にエジプトで行われたロゼッタの戦い(1807年3月31日)。Chasseurs Britanniquesの短い歴史で最も大量の被害が出た戦いでもある。2人の士官、3人の軍曹、2人の鼓手、99人の兵士が死去し、9人の士官、4人の軍曹、111人の兵士が負傷した。全体の損害は230人と、二番目に被害の多かったヴィットリアの戦い(140人)を大きく上回っている。
 損害の穴埋めは様々な手法で行われた。由来がコンデ軍とはいえ、発足当初からフランス人だけでなくドイツ人やスイス人を多く含んでいたChasseurs Britanniquesは、その後もスペイン、ポーランド、東欧諸国、イタリアなど各国から次々と傭兵を組み入れていった。まさに雑種部隊である。著者の分析によれば兵士の中で最も多かったのは実はポーランド人、次がドイツ人(含むオーストリア)、その後にイタリアやフランスが続いたようだ。中には米国出身者もいたという。
 人員補充を英国人だけに頼っていた他の部隊に比べ、国籍面で融通無碍だったChasseurs Britanniquesは兵数不足に悩むことはなかったようだ。1811年にイベリア半島に移動して以降、この部隊は第7師団に所属していたが、同一旅団内ではいつも最大の部隊であり続けた。これにはプロの軍人として補給などに気を配り、兵士の損耗を抑えながら戦った同部隊所属の士官たちの能力も寄与したようである。
 イベリア半島の戦闘でChasseurs Britanniquesが最も大きな損害を受けたのは、上にも記した通り1813年6月21日のヴィットリアの戦い(戦死29人、負傷111人)。以下、1813年8月31日のビダソア付近での戦闘(戦死15人、負傷29人、不明28人)、1811年5月5日のフエンテス=デ=オニョーロの戦い(戦死30人、負傷21人、不明7人)などが続く。ウェリントンは著名な軽師団やピクトンの第3師団などに比べてあまり第7師団は活用しなかったようで、Chasseurs Britanniquesの損害も低めである。
 もう一つ、ウェリントンが気にしていたことがある。それはこの外人部隊の兵士たちの中で、脱走する者が非常に多かったことだ。基本的に傭兵ばかりだったうえ、時には捕虜を兵士として組み込んだため、部隊を巡る状況が悪くなればすぐに脱走者が膨らんだ。実はChasseurs Britanniquesがイベリア半島で最大の被害を出した日は、特に目立った戦闘のない一日、1813年7月27日である。ピレネー山中で物資の不足にあえいでいた部隊はこの日、脱走者148人を出し、他に行方不明者が30人いた。合計178人はヴィットリアでの損害を上回る。ウェリントンは彼らを哨戒任務に就けないよう命令していたほどだ。

 王党派軍残党が母体となった部隊だが、改めてその中身を見るとやはり「雑種部隊」という表現が最も適切だろう。Chasseurs Britanniquesの物語は、種々雑多な国籍の人間から成る傭兵たちの物語である。本の中には部隊に所属した兵士たちの一部をappendixで紹介しているのだが、その国籍は実に多様だ。モスクワ生まれのトーマス・ヴァノフ、ベラルーシ出身のドミニク・シュヴィッガー、ベルリン生まれのクリスチャン・マグナス、ヴェネツィア近くで生まれたフランソワ・タバリーノ、ルーマニアのティミショアラ出のテオドール・ギリー、スペインのカスティリア地方出身のフリュクトール・フレイル、ハンガリーやウィーンから来た者もいる。
 兵士たちの大半が最後は障害を負って兵役を退いているのも気になるところ。大半は四肢のどれかを切断していたり、視力を失っていたり、そこまで行かなくても体の一部が麻痺しているとか、酷いリューマチに悩んでいるとか、そんな者ばかりだ。もしかしたら著者が参照した史料が、そういった者ばかりを集めたものだったのかもしれない。
 むしろ王党派残党としての色合いが強いのは士官の方。それも時間と伴に変化しており、最後の時期になるとコンデ公の下で戦ったものとは別口でやってきた士官が増えている。部隊に所属する士官の一体感はかなり強かったようで、戦争が終わった後も個人的なつきあいを長く続けた者たちが多かったそうだ。
 最後に、代表的なChasseurs Britanniquesの士官を一人、紹介しておこう。シャルル=ルイ=アレクシ・デュ=オートワ公。1766年にティシュモンに生まれ、アンシャンレジーム下で竜騎兵部隊の士官となる。革命後の1790年に亡命。他の亡命軍を経て1795年にコンデ公軍に加わる。Chasseurs Britanniques発足時に大尉として所属。ロゼッタで負傷し、1809年に少佐に昇進する。1811年、リスボンで結婚。1813年には中佐となり、指揮官不在時には部隊の指揮も執った。ビダソア付近でも負傷。戦争が終わると退役して年金をもらい、ヴェルダン近くに住居を構えた。1838年、パリで死去。

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