前にも述べた"
https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56630711.html"通り、この日の出来事についてはある逸話があちこちで語られている。曰く、ナポレオンがドレスデンに到着したことに気づいた司令部は、午後から予定されていた攻撃を中断し、後退することを決定。シュヴァルツェンベルクがそのための命令を伝えることになったが、時間的に間に合わなかったのか、それとも攻撃を欲した彼が業務をサボったのか、いずれにせよ命令は兵たちまで伝わらず、連合軍は攻撃を始めてしまったという内容だ。
しかしこの逸話の裏付けとされる証言は、実はドレスデンの戦いから10年以上後になって登場してきたものばかり。もっと古い証言を調べてみると、連合軍司令部内で攻撃中止や後退が決定されたと言明しているものは見つからない。つまり実際にはそもそも攻撃をやめる決断自体が存在せず、連合軍は予定通りに攻撃をしてフランス軍に撃退されたと見る方が妥当だ。そしてこのFeldzug von Dresdenには、その点を別の切り口で補強する材料が載っているのである。
同書ではナポレオンのドレスデン到着が連合軍の作戦計画にとって重要な情報であったことは認めている。それだけに連合軍の指揮官たちがいつその事実を認識したかが重要だ。様々な本ではその時間を26日正午までと指摘し、「ある著者によればドレスデンの市民がこのニュースを伝え、他の者はナポレオンが連合軍の宿営地に送り込んだスパイのシュナイダーを使ってこの恐るべき情報を広めた」(p194)と書いているそうだ。
実のところ、ナポレオンがやって来たという噂は早い時間に届いていた可能性が高い。問題は、そういう噂はボヘミア軍が国境を越えてザクセンに入った直後から何度も伝わっていたであろうことだ。同じことは「皇帝万歳!」の叫び声についても言える。MaudeはThe Leipzig campaign, 1813"
https://archive.org/details/cu31924024321782"の中で「皇帝万歳の大きな歓声が町から湧き上がり、一瞬にして『遅すぎた』という声が皆の口をついた」(p182)と書いているが、もちろんこの歓声だけではナポレオンの存在を立証することにはならない。
むしろ「信頼できる記録から推論する限り、軍の指揮官たちが敵の将軍の到着を知ったのは、歴史上これまで推測されてきたよりもかなり遅かったのは確かだ」というのがFeldzug von Dresdenの主張。証拠はいくつも紹介されており、その一つとしてシュヴァルツェンベルクが28日に皇帝フランツに宛てて書いたドレスデンの戦いに関する報告書がある。
それによると26日午後、攻撃の試みが始まった後に最初に連れてこられた捕虜が「ナポレオンが正午からドレスデンにいると証言した」という。連合軍による「攻撃の試み」が始まったのが午後5時頃だったため、連合軍の指揮官たちがナポレオンの到着を知ったのはそれより後という理屈だ。また司令部から出された文章の中には、ビアンキ、コロレード及びモーリッツ・リヒテンシュタインの各師団が26日夕方に攻撃に出たという記述の後に「戦闘の間に皇帝ナポレオンが町を支援すべく親衛隊とともに到着したことが明らかになった」(Feldzug von Dresden, p195)と書かれているという。
後者の文言は、実は以前に紹介した"
https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56643391.html"シュヴァルツェンベルクによる報告書と同じである。ただしFeldzug von Dresdenでは引用元としてオーストリアの戦争文書館を挙げているので、ネット上で見つかるシュヴァルツェンベルクの報告書とは別のソースと考えていいだろう。シュヴァルツェンベルクの報告にはコロレードの名しか出てこないのに対し、ビアンキやリヒテンシュタインの名前も出てくるあたり、やはり別の史料に基づく主張だと思われる。
さらに26日夕方にドレスデン南方のバンネヴィッツで書かれた文章にも「ナポリ王[ミュラ]は前日午後に、皇帝ナポレオンは今日の午後2時に到着したと言われている」と書かれているそうだ。こちらもやはりオーストリアの戦争文書館の記録。この文章自体は連合軍司令部がナポレオンの到着をいつ知ったかを調べる材料として十分なものとは言えないが、それでも彼らが午後2時以前にその事実を知った可能性は消える。
もう一つ、プロイセンのクライスト中将が26日の会戦について記した戦闘日誌の引用もp195の脚注に載っている。プロイセンのアーカイヴから引用したというその文章によれば「敵は終日、エルベ対岸からの増援を利用しており、後に分かったように皇帝ナポレオンですらこの日にドレスデン内の公園に到着した」とある。これもまた連合軍がナポレオンの到着を知るのに時間がかかったことを示す材料となる。
「最後に今度は若年親衛隊4個師団が到着し、5時頃にうち2つがピルナ門から、残る2つがプラウエン門から出撃し、即座に敵を攻撃した。彼らはこの大胆な移動からナポレオンの存在を知った」
p272-273
そしてベルトゼーヌはその脚注に「これはシャステラー侯爵自身の発言である」と言及している。シャステラーはドレスデン会戦において予備となった擲弾兵師団を指揮していたことが、25日付でシュヴァルツェンベルクが出した命令書に記されている("
https://archive.org/details/bub_gb_HOkaAAAAYAAJ" p448)。ベルトゼーヌが本当にシャステラーからこの話を聞いたのであれば、これまた連合軍指揮官たちがナポレオンの到着を知ったのが遅かったことを示す一例になる。
ここまで紹介されている一連の史料は、その大半が会戦から間もない時期に書かれたものに由来している。信頼度という意味では高いのだが、Feldzug von Dresden以外では確認できない史料が多いのが問題だ。一方で最後に紹介したベルトゼーヌの本は1855年に出版された回想録であり、しかもまた聞きの話だから信頼度は決して高くない。
それでもこれだけ量が揃えば傾聴に値する主張だと言えるだろう。情報の出元はオーストリア軍由来のものが多いが、それだけでなくプロイセン軍のものも入っている。もしこの指摘が正しいのだとすれば、連合軍はそもそも夕方の本格攻撃開始以前にはナポレオンのドレスデン到着を全然知らなかったことになる。
そう考えながら古い史料、例えばウィルソンの日記"
https://books.google.co.jp/books?id=3SIMAAAAYAAJ"を読むとなかなか興味深いことが分かる。そこでは襲撃に反対していた人物として皇帝とモローの名があげられているが、これは前回紹介したストシェルビニンの話で彼らがドレスデン攻撃そのものに反対していたという点と平仄が合う。またウィルソンが攻撃が難しいと考えた理由にナポレオンの存在への言及が全くない点は、この時点でまだ彼らがナポレオンの到着を知らなかったためだと考えれば辻褄が合う(p91)。
こちらの新聞"
https://books.google.co.jp/books?id=NjkoAAAAYAAJ"に載っているステュワートの報告には、夕方に行われたドレスデンからの「敵の出撃は、翌28日[ママ]朝に行われたより全面的な会戦の序曲だった。――ブオナパルテは22日[ママ]夜にラウジッツにいる彼の軍の一部とともにドレスデンに到着し」たと書かれている(p441)。この文章は、夕方の若年親衛隊の出撃によって連合軍は初めてナポレオンの存在に気付いた、というベルトゼーヌの指摘と歩調が合っている。
もし夕方の本格攻勢前にナポレオンの到着を知らなかったとすれば、「攻撃中断と後退」を決断する論拠そのものがなくなる。ジョミニらが10年以上後に主張し始めた話は前提自体が覆り、シュヴァルツェンベルクによるサボタージュという指摘も無根拠となる。やはり26日に連合軍司令部が攻撃中断を決めたという話は、事実ではないと考えた方がよさそうだ。
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