ドレスデン補遺 上

 ドレスデンの戦いについて追加する。Befreiungskrieg 1813 und 1814の第3巻"https://books.google.co.jp/books?id=jf4JAAAAIAAJ"に掲載されているFeldzug von Dresdenの一部の内容が分かったので、それに基づいた知見を紹介する。

 最初に8月25日時点でドレスデンに対する攻撃を行わなかった件についてだが、これに関してはプロイセンの外交官で歴史家でもあったBernhardi"https://de.wikipedia.org/wiki/Theodor_von_Bernhardi"と、ロシアの軍人兼軍事史家であったBogdanovich"https://en.wikipedia.org/wiki/Modest_Ivanovich_Bogdanovich"の2人が19世紀に書いた本の中に興味深い記述があるという。それぞれを見てみよう。
 まずはBernhardiのDenkwürdigkeiten aus dem Leben des kaiserl. russ. Generals von der Infanterie Carl Friedrich Grafen von Toll."https://books.google.co.jp/books?id=bHcIAAAAQAAJ"だ。1857年に出版されたこの本は、題名の通りロシアで軍務についたプロイセンの軍人トールの伝記であり、その中にドレスデンの戦いへの言及もある。
 著者は25日にドレスデン正面に到着したボヘミア軍司令部の中で何が議論されたかについて、まずはミハイロフスキ=ダニレフスキによる「皇帝アレクサンドルが即座に攻撃するよう主張したがシュヴァルツェンベルクがオーストリア全軍の到着を待つため翌日まで攻撃を延期した」説を紹介。続いてオーストリアの外交官プロケシュ"https://de.wikipedia.org/wiki/Anton_Prokesch_von_Osten"が書いたシュヴァルツェンベルクの伝記"https://books.google.co.jp/books?id=5x8zOquEJGEC"にある説を紹介する。
 このプロケシュの説は曰く「シュヴァルツェンベルク公は25日の攻撃を命じたが、午後4時になっても予定の場所に到着できなかった兵たちの疲労と、ロシアの将軍による本日は攻撃できないとの主張を受けて、攻撃は翌日に延期された」(Prokesch, p183-184)というものだ。Bernhardiによるとこのロシアの将軍とはバルクライ=ド=トリーのことだという主張があるそうだが、Bernhardi自身はその説を取っていない(Bernhardi, p143)。
 いずれにせよBernhardiはダニレフスキの主張を「事実とは真逆」、プロケシュの言うことを「完全に事実ではない」と否定。そのうえで「実際に次に何をすべきかという問題は、戦場において皇帝アレクサンドルとプロイセン王の周辺に乗馬のまま集まって行われた戦争会議において交渉された」としている。参加者はシュヴァルツェンベルクと幕僚たち、バルクライ、クネーゼベック、そしてモローやジョミニ、トールを含むアレクサンドルの取り巻きたちなどである。
 シュヴァルツェンベルクは即時攻撃を主張していたが、この場における彼は司令官というより二次的な存在に過ぎなかった。中心になったのは皇帝アレクサンドルであり、彼の決断がその後の方針を事実上決めることになった。そのため参加者の目的はいかに皇帝を説得するかとなり、ジョミニが即時襲撃を主張したのに対し、モローは「2万人を失うことになる」と反対。トールもドレスデン正面の高地にとどまるだけでナポレオンのあらゆる動きに対応できると主張した。
 アレクサンドルはかなり迷ったようだが、彼が躊躇している間にどんどん時間が過ぎてこの日の攻撃は不可能になっていった。遂に皇帝はモローとトールに従い、単に25日のうちに攻撃することに対してだけでなく、そもそも攻撃をすること自体に反対したという。そしてこの会議を直接目撃したロシア人の日記からの引用として「シュヴァルツェンベルクは、あたかも皇帝に謁見する廷臣のように従った」(p144)という言葉を紹介している。

 続いてBogdanovichのGeschichte des Krieges im Jahre 1813 für Deutschlands Unabhängigkeit."https://books.google.co.jp/books?id=G15HAAAAYAAJ"だ。こちらはBernhardiより後の1868年に出版された本だが、基本的にBernhardiと同じ内容をより簡潔に記している。
 曰く、まずはジョミニが敵兵の弱さを利用して町を強襲するよう示唆。それに対しモローが成功するかどうか疑問を述べ、トールが敵に対して中央の位置を取るよう勧めたというところまで話の展開は同じだ。Bogdanovichによればトールはそれ以前にドレスデンへの攻撃を避け、ディッポルディスヴァルデで足を止めるよう助言していたそうなので、彼の見解自体は終始一貫していたと見られる。
 皇帝アレクサンドルはやはり長時間迷い、そのうえでモローとトールに同調した。シュヴァルツェンベルクは強襲したいと思っていたが周囲の反対のために実行することができず、「それでも自身の見解に対して完全に不誠実なままでいたいとも思わなかった彼は、自らの決断をほぼ24時間延期した」(p134)。
 だが最終的には攻撃延期が拙い結果をもたらしたため、後には誰もが責任逃れに走った。ロシアとプロイセンはシュヴァルツェンベルクを非難し、オーストリアはバルクライ=ド=トリーに責を押し付けた。特に広く語られるようになったのがシュヴァルツェンベルクに対する批判であることはこれまでも紹介してきた通りだ。
 しかしBogdanovichの記述で最も興味深いのは、上記の文中にある「注16」の部分だろう。脚注が載っているところを見ると、そこにはソースとして「Alexand. Andreew. Stscherbinin」(XXIX)なる人名が出てくる。彼は皇帝アレクサンドルの司令部参謀本部に所属する士官で、Bogdanovichが紹介した話は彼が記録したものだそうだ。ということはほぼ同じ話を載せているBernhardiもまた、彼の記録に基づいて書いたと思われる。
 以前紹介したスヴィニンとは違う名前だし、おそらく別人だ。Bernhardiによるトールの伝記第2巻"https://books.google.co.jp/books?id=oTo6AAAAcAAJ"にはこのストシェルビニンの名が何度も出てくるのだが、この「若い参謀士官」(p44)は1812年のボロディノの戦い時点では中尉として登場している。また1813年にはカリシュでトールと彼が一緒に茶を飲んだという話も載っている。
 Bernhardiの伝記第3巻にはストシェルビニンは1ヶ所しか姿を見せない。ライプツィヒの戦いの最中にトールが彼を皇帝アレクサンドルへの伝令として送り出す場面(p450)がそれだ。おそらくストシェルビニンはこの年も前年に続いて戦役に参加していたのだろう。ということはモローを迎えにアメリカまで行ったスヴィニンとは別人であると考えられる。ドレスデンの戦いで起きた25日の経緯について、ソースがスヴィニンであると書いているNapoleon: The End of Glory"https://books.google.co.jp/books?id=rNzHAwAAQBAJ"は、従って間違いを記していることになる。

 Feldzug von Dresdenの筆者はこのストシェルビニンに由来する状況の説明を同様に紹介したうえで、現実はそれと必ずしも一致していなかったのではないかと指摘している。ストシェルビニンによれば25日の攻撃が延期されたのは、あくまで攻撃に反対する部下たちの見解を皇帝が採用したからということになるが、そもそも25日に攻撃が可能だったかどうか自体が怪しいそうだ。
 連合軍の各部隊が攻撃を始められる場所にたどり着いたのがいつかははっきりしていない。最初に来たのはヴィトゲンシュタインの部隊だが「それのみで襲撃を行うのは指揮官たちの常識にほとんど一致していなかった。彼らはそれほど大胆ではなかった。より遅く攻撃を行うことが深刻に考慮されたとも思えない。その場合は夜になって決定的な戦いをしなければならなくなるからだ」(p160)。個人的な見解の相違よりも、8月25日時点ではそもそも攻撃ができなかったのが実情だ、と著者は結論づけている。
 この指摘がどこまで正しいのか判断するためには各部隊がどの時点でどこに到着していたかを調べる必要があるのだが、正直それは私の手に余る。ワーテルロー会戦でも同様の問題が指摘されているが、あれは200年にわたって寄ってたかって大勢の人間が調べまくった戦いだから議論ができるのであり、ドレスデンの戦いのように意外に史料が見当たらない会戦になると調べるのは簡単でない。
 個人的にはストシェルビニンが嘘をついていたとまでは思っていない。司令部内で議論があったのはおそらく事実だろうし、それが彼の記録したような流れになった可能性はあると思う。ストシェルビニンが日記をつけていたのはおそらく事実("https://books.google.co.jp/books?id=oTo6AAAAcAAJ" p79)なので、彼の記録の信頼度がミハイロフスキ=ダニレフスキの言い分を上回るのは確かだろう。

 次回は26日の件について。
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