危機の17世紀

 「危機の17世紀」という概念がある。1950年代に最初にこの考えを唱えたのは「長い19世紀」や「短い20世紀」という概念の提唱で知られるホブズボーム"https://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Hobsbawm"。彼はこの17世紀の危機が封建経済システムを最終的に破壊し、産業革命と資本主義への道を開いたと主張しているそうだ"http://vle.du.ac.in/mod/book/print.php?id=5320&chapterid=976"。
 ホブズボームが分析対象としたのは欧州であり、同じく1950年代に「17世紀の全面的危機」という論考を記したTrevor-Roper"https://muse.jhu.edu/book/19156"も分析対象としていたのは欧州だ。だが後にこの概念はもっと広範囲に広げられた。一例が軍事革命論で知られるGeoffry Parkerだが、彼は「17世紀のグローバル危機」"https://warwick.ac.uk/fac/arts/history/ghcc/event/events/parkerahr2008.pdf"について論じている。
 こちら"https://en.wikipedia.org/wiki/The_General_Crisis"では欧州だけにとどまらない世界的な危機について簡単にまとめられている。まず欧州では有名な三十年戦争、イングランド・スコットランド・アイルランドの三王国戦争、フランスのフロンドの乱といったものがあったほか、オランダの反乱はこの時期にクライマックスを迎えている。
 東欧ではポーランド=リトアニア連合を巻き込んだ戦乱「大洪水」"https://en.wikipedia.org/wiki/Deluge_(history)"が17世紀半ばに生じているほか、オスマン帝国では数多くの反乱が起きていた。ロシアでは17世紀初頭に動乱時代があり、ロマノフ王朝成立までは混乱が続いた。
 中国では明が滅亡し清に変わる時代だったし、ムガール帝国では後継者の地位を巡っていくつもの戦闘が起きていた。江戸幕府が成立したばかりの日本でも17世紀の前半は大坂の陣や島原の乱などまだ戦乱が続いていた。
 この「全面的な危機」に関する最近の議論で論拠に掲げられているのは、世界的な気候変化だ。いわゆる小氷期(マウンダー極小期)"https://en.wikipedia.org/wiki/Maunder_Minimum"の到来によって寒冷化が進み、それが経済活動に影響し、ひいては政治・社会的な混乱につながったという理屈である。
 Parker論文"https://warwick.ac.uk/fac/arts/history/ghcc/event/events/parkerahr2008.pdf"のp1068には中国における気温変化がグラフ化されているが、確かに17世紀の特に中頃は最も寒さが厳しい時期だったことが分かる(次に厳しいのが19世紀)。加えてこの時期は火山の活動も多く、夏場の気温が特に低かった(p1071)。
 つまり「全面的な危機」論はどちらかというと外在的な要因にその原因を求めていることになる。一方、Turchinらの「永年サイクル」論によれば17世紀は危機もしくは沈滞期に相当する"https://press.princeton.edu/titles/8904.html"。こちらは人口構造のサイクルに由来する内在的な原因を重視した論だ。実際には内在外在両方の要因が働いたのだろう。

 そしてこの「17世紀のグローバル危機」を「大分岐」と結びつけた論がこちら"https://escholarship.org/uc/item/04n6p4xr"。一般的に大分岐論は、1800年頃を境に欧州が世界の他地域との間に大きな差をつけるようになったという説だ。しかしこの論文ではこの「大分岐」が実は世界の一部のみを対象にしたものにすぎず、より高レベルの「大分岐」はそれ以前の18世紀に生じていたと主張している。
 この指摘の中で一番面白いのは、大分岐論がその大上段に構えた言い回しとは裏腹に、実際にはほとんど欧州と東アジアの比較しかしていないという部分だ(p2)。確かに大分岐論でしばしば取り上げられるのは中国の、特に経済的に最も発展していた浙江地方と、同時代の欧州北西部との比較である。だがそこには北アフリカや西アジア、南アジア、中央アジア、東南アジアについての言及が存在しない。
 つまり大分岐論で取り上げられているのは実際には「欧州と東アジアの分岐」にすぎず、それ以外の地域は無視されているというわけだ。そして「欧州」「東アジア」とそれ以外の地域は、1800年頃には既に大きな差をつけられていた。それを示すのがp3及びp4のグラフ。欧州諸国と中国が1700年頃を境に急激に経済成長を成し遂げているのに対し、インド、トルコ、イラン、そしてサブサハラアフリカなどはその成長から明らかに取り残されている。
 この1700年頃に発生したより根源的な大分岐について、この論文では「グローバルノース」と「グローバルサウス」の分岐と称している。実際、1700年から1820年にかけての成長度はユーラシアでも北方にある欧州や東アジアで高く、ユーラシア南部やアフリカでは低かった(p8グラフ参照)。そして実は同じ傾向がアメリカ大陸でも存在したそうで、グローバルに見て北と南の分岐が進んだのがこの時期だという(p8-9)。
 そしてこの差は「17世紀のグローバル危機」からの回復度合いの差である、というのがこの論文の指摘だ(p4-5)。グローバルノースの諸国がより高い安全度と着実な発展を確保することができたのに対し、グローバルサウスでは18世紀に入っても北の諸国ほどしっかりとした対応ができなかった。例えば不作への対応(p6)や疫病対策(p7)といった分野でグローバルノース諸国が優れた措置を取ったのに対し、全面的危機からの回復が遅れたグローバルサウスではそうした対応ができなかった。
 なぜ欧州と東アジアが危機から回復でき、他地域にそれができなかったのかについての仮説はここでは提示されていない。あくまで大分岐論に対する異説の提示が目的だからだろう。単なる偶然なのか、それとも欧州と東アジアに何か共通する特徴でもあったのか、そのあたりはこれから調べるテーマなのかもしれない。

 18世紀(というか1700年)を重視するのはChaseのFirearmsでも提唱されていた考えだ"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54340971.html"。この時を境に欧州の軍事的優位が明確となり、それが彼らによる世界征服を加速したという理屈である。一方「18世紀の大分岐論」では軍事ではなく経済を対象に話を組み立てているが、グローバルサウスが18世紀から立ち遅れ始めたという説は確かに一定の説得力を持つ。
 オスマン帝国の領土が始めて減ったのは1699年だった。サファヴィー朝は18世紀に滅亡し、その後のペルシアは群雄割拠状態となった。ムガール帝国は18世紀には崩壊に向かい、英国がインドでどんどん植民地を広げていた。東南アジアでは18世紀になっても各地で戦乱が続いていた。軍事=財政国家の確立に邁進していた欧州や、全盛期を迎えていた清朝などに比べると明らかに立ち遅れていた様子が見える。
 一方でこの説には注意すべき点もある。何よりも議論の下敷きに使っている過去のGDP推計がどこまで信用できるかという部分は大きな問題だ。論拠となっているMaddisonの推計のうち、特に1820年以前については「これから学問的検証が詰められるべきもの」"http://heartland.geocities.jp/zae06141/angas_maddison_han_dinasty_gdp.html"という指摘もある。そもそも本当に1700年を境に北と南の大分岐が起きたかどうか自体、裏付けはこれからだ。
 そもそも東西の「大分岐」自体、1800年よりも前に起きていたという指摘もある"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56433149.html"。だとすればこの論文が指摘している「まず南北、次に東西」という順番も、実はそれほど明白ではなかった可能性がある。17世紀の危機が終わったところから回復競争が始まったが、18世紀の時点ですでに欧州が先行し、その後ろを東アジアが追い、他の地域は大きく遅れたという流れだった可能性もある。
 それでもつい「東西」という切り口で考えがちな歴史家に対し「南北」という視点を提供している点は注目に値する。科学革命に注目する1500年分岐説も含め、世界の各地域における発展ペースがいつどのように変化していったのかを知るためにはまだまだ色々と調べる必要があるのだろう。
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