中国では明が滅亡し清に変わる時代だったし、ムガール帝国では後継者の地位を巡っていくつもの戦闘が起きていた。江戸幕府が成立したばかりの日本でも17世紀の前半は大坂の陣や島原の乱などまだ戦乱が続いていた。
そしてこの「17世紀のグローバル危機」を「大分岐」と結びつけた論がこちら"
https://escholarship.org/uc/item/04n6p4xr"。一般的に大分岐論は、1800年頃を境に欧州が世界の他地域との間に大きな差をつけるようになったという説だ。しかしこの論文ではこの「大分岐」が実は世界の一部のみを対象にしたものにすぎず、より高レベルの「大分岐」はそれ以前の18世紀に生じていたと主張している。
この指摘の中で一番面白いのは、大分岐論がその大上段に構えた言い回しとは裏腹に、実際にはほとんど欧州と東アジアの比較しかしていないという部分だ(p2)。確かに大分岐論でしばしば取り上げられるのは中国の、特に経済的に最も発展していた浙江地方と、同時代の欧州北西部との比較である。だがそこには北アフリカや西アジア、南アジア、中央アジア、東南アジアについての言及が存在しない。
つまり大分岐論で取り上げられているのは実際には「欧州と東アジアの分岐」にすぎず、それ以外の地域は無視されているというわけだ。そして「欧州」「東アジア」とそれ以外の地域は、1800年頃には既に大きな差をつけられていた。それを示すのがp3及びp4のグラフ。欧州諸国と中国が1700年頃を境に急激に経済成長を成し遂げているのに対し、インド、トルコ、イラン、そしてサブサハラアフリカなどはその成長から明らかに取り残されている。
この1700年頃に発生したより根源的な大分岐について、この論文では「グローバルノース」と「グローバルサウス」の分岐と称している。実際、1700年から1820年にかけての成長度はユーラシアでも北方にある欧州や東アジアで高く、ユーラシア南部やアフリカでは低かった(p8グラフ参照)。そして実は同じ傾向がアメリカ大陸でも存在したそうで、グローバルに見て北と南の分岐が進んだのがこの時期だという(p8-9)。
そしてこの差は「17世紀のグローバル危機」からの回復度合いの差である、というのがこの論文の指摘だ(p4-5)。グローバルノースの諸国がより高い安全度と着実な発展を確保することができたのに対し、グローバルサウスでは18世紀に入っても北の諸国ほどしっかりとした対応ができなかった。例えば不作への対応(p6)や疫病対策(p7)といった分野でグローバルノース諸国が優れた措置を取ったのに対し、全面的危機からの回復が遅れたグローバルサウスではそうした対応ができなかった。
なぜ欧州と東アジアが危機から回復でき、他地域にそれができなかったのかについての仮説はここでは提示されていない。あくまで大分岐論に対する異説の提示が目的だからだろう。単なる偶然なのか、それとも欧州と東アジアに何か共通する特徴でもあったのか、そのあたりはこれから調べるテーマなのかもしれない。
オスマン帝国の領土が始めて減ったのは1699年だった。サファヴィー朝は18世紀に滅亡し、その後のペルシアは群雄割拠状態となった。ムガール帝国は18世紀には崩壊に向かい、英国がインドでどんどん植民地を広げていた。東南アジアでは18世紀になっても各地で戦乱が続いていた。軍事=財政国家の確立に邁進していた欧州や、全盛期を迎えていた清朝などに比べると明らかに立ち遅れていた様子が見える。
それでもつい「東西」という切り口で考えがちな歴史家に対し「南北」という視点を提供している点は注目に値する。科学革命に注目する1500年分岐説も含め、世界の各地域における発展ペースがいつどのように変化していったのかを知るためにはまだまだ色々と調べる必要があるのだろう。
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