著者によればEurocentricな歴史家はイスラムの極端な保守主義やオスマン帝国における文化や技術における保守性が原因で、オスマン帝国は西欧列強に対して劣後したという主張をしているそうだが、それは事実に反した説だという。オスマン帝国は軍事面では欧州のライバル同様に合理的であり、火器に対する彼らの対応にはイスラムという宗教は全く関係していない。オスマン帝国が18世紀以降、欧州に対して劣後するようになっていったのは、欧州で確立していった財政=軍事国家の膨大な動員力に追いつけなくなったのが理由だ、というのが著者の考えだ。
「なぜ西欧が勝ったのか」については、これまでも分岐の始まった時期を踏まえた軍事(あるいは科学)革命重視説や、産業革命期の大分岐説があることを紹介してきた。それとは別に文明だったり、制度だったりというものを持ち出して説明する向きもある。個人的には軍事力や経済力のように数字での裏付けが可能なものはともかく、文明や制度といった定量化しにくいものを説明原理として持ち出すのは一歩間違えると「万能の理論」と化す恐れがあるので好ましくないと思っている。万能の理論は何でも説明できるが、何一つとして予測できない。こちらが欲しいのは予測に役立つ理論だ。
Agostonに批判されているEurocentric Schoolの議論は、Agostonが持ち出す数字によって否定されている。彼は具体的なオスマン帝国による火薬や銃砲の製造量を示し、それがスペインやオーストリアといったライバルたちに匹敵、あるいは上回っていることを具体的な数字で証明している。文明という曖昧な基準とは異なり、明確かつ客観的な基準だ。Scheidelの本を紹介した時"
https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56599137.html"にも言ったが、今の歴史家は数字やデータと無縁ではいられない。
Agostonの分析はあくまでオスマン帝国の火器が主題だが、その中でイスラム圏にいつ火器が伝わったのかについての説明も載っている。曰く、「イスラム圏における早い時期の火器使用に関する言及(1204、1248、1274、1258-60、1303及び1324年)は注意深く扱うべきである。なぜなら後期中世のアラビア語文献で使われている火薬や火器関連の用語は混乱しているからだ」(p15)。加えてこれらの論拠となっているのはその多くが後の時代、15世紀の年代記に記されているものであり、必ずしも古い時代の火器利用を証明するものとは言えないそうだ。
Agostonも多くの学者たちと同じく、中国で生まれた火器が欧州で「最も顕著な発展をした」(p16)ことを認めている。それがほぼ間違いなく始まった時期が1320年代から1330年代であり、しかし初期の火器は小さすぎたことも指摘。攻囲戦において大砲が本当に役立つようになった時期は15世紀半ばからだとしており、どうやら14世紀後半や15世紀前半の大型砲が持つ実効性は限定的だと見ているようだ。
オスマン帝国自身に火器が伝わった時期についても、初期のもの(1354、1364、1386及び1389年)については議論の余地があるという。ただ1346年にはヴェネツィア軍がバルカン半島でボンバルドを使ったという記録があり、1362-63年には小型の火器がバルカンで製造されはじめた。ビザンツ帝国でも1390年頃にはジェノヴァから手に入れた火器の使用が始まっており、この14世紀末にはオスマン帝国のすぐ近くまで火器が姿を見せるようになっていた。
1389年のコソヴォの戦いではオスマン帝国の敵しか使っていなかった火器が、1394-1402年のコンスタンティノープル攻撃時にはオスマン側も使っていたという記録が出てくるようになる(p17)。それから半世紀もするとコンスタンティノープル陥落で使われたウルバン砲をはじめとした多くの大砲をオスマン軍は使いこなすようになっており、彼らがこの新型兵器を積極的に取り入れた様子が窺える。
ただしAgostonは「本当の問題は火器が最初に使われたのがいつかではなく、むしろ軍事的紛争の結果に重要なインパクトを与えるのに十分なだけ効果的に使われるようになったのがいつか」(p21)だとも書いている。それはその通りで、クレシーで火器が使われたかどうかは、クレシーの勝敗にはほとんど影響しなかっただろう。しかし15世紀半ばにフランス軍がノルマンディーの城砦を落として回った際には、火器は十分に大きなインパクトを与えたと見られる。どちらが重要かは明白だ。
Agostonの本でもう一つ興味深いのは、オスマン帝国で使われていた大砲についての紹介が載っている第3章だ。オスマン帝国では不格好な巨砲がいつまでも使用され、欧州で発展したような小型で小回りの利く大砲の発展が遅れたというEurocentricな視点をAgostonは批判し、オスマンでも欧州と同様に様々な種類の大砲が生産され、運用されていたと指摘している。
ただ欧州よりも明白に遅れていた部分もある。欧州では多様な口径があった大砲についてその種類を減らそうとする標準化の流れが既に16世紀には始まっていた"
https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56007975.html"。しかしオスマン帝国では標準化の流れは遅く、Agostonが掲載しているリストを見ても同じ名前の大砲で十種類ほどの口径が存在していたことがたびたび指摘されている。口径の不統一は当然、運用上の困難をもたらしただろうし、それは戦争においてはマイナスに働いただろう。
では大砲にはどんな種類があったのか。Agostonが紹介するものはやたらと種類が多い。まず西欧では15世紀に全盛期を迎えたボンバルドについてだが、オスマン帝国では16世紀初頭まで製造されていたようだ。長いものは約7メートル、重いものは17.5トンもあったという。臼砲も存在し、16世紀の前半には既に榴弾が使用されていたそうだ。砲弾のサイズは軽いもので27キロ、重いものだと111キロあった。
通常の大砲については大型、中型、小型に分けて紹介しているが、これがまた種類が多い。例えば大型砲にはシャイカ、バリエメズ、バジャルシュカ(バジリスク)、カノンの4種類があり、さらにシャイカのように大型、中型、小型シャイカと細かく分かれているものがある。さらに口径も複数の種類があり、例えば大型シャイカなら砲弾サイズ34キロから68キロまでの7種類がある。あるいは小型バジャルシュカのように砲弾が1キロという大型砲と呼ぶには小さすぎるものもある。
中型砲にはコルンブルナ、ダルブゼン、シャーヒーなどがある。小さいものだと大砲自体の重量が54キロ程度まで小さくなる。小型砲にはサチュマ、エイネク、プラング、ミスケット、シャカロズといったものが存在し、小さいものだと撃ち出す砲弾はたった31グラムだったそうだ。オスマンの大砲は多くが青銅製だったが、小型砲になると鉄製のものも存在したという。
以上が大雑把な紹介だが、一つ残念なのはほとんどの大砲について口径長が分からないこと。どうもAgostonが調べたアーカイヴのデータ自体にそうした記録がなかったようだ。欧州のように口径長に準じた分類を試みるのは難しそうだ。
コメント