包括適応度とマルチレベル選択

 あちゃー。

 Peter Turchinの議論について、一つ気になっていたところが今回もろに露呈した。マルチレベル選択に関する考えがそれだ。以前から少し気になってはいたが、あくまで彼の言うマルチレベル選択は「包括適応度と等価のもの」であり、説明しやすくするために持ち出しているものだと思っていた"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55668651.html"。だがそうではなかったようだ。
 For the Good of the Speciesと名付けたエントリー"http://peterturchin.com/cliodynamica/for-the-good-of-the-species/"の中で、彼はマルチレベル選択の守護聖人と揶揄されることもある"http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20160211"David Sloan Wilsonのことを「私のよき同僚にして友人」と呼び、明白に「グループ選択は我々の理解にとってカギとなる」とまで述べている。
 彼がわざわざこんなエントリーを書いたのは、Natureに載った論文"https://www.nature.com/articles/s41586-018-0020-7"が理由だ。彼に言わせればこの論文は「マルチレベル選択の明白な事例」となるらしい。なぜか。
 論文では貝虫という節足動物の化石を使い、絶滅率を調べている。貝虫のオスは大きな性器を格納するために細長い殻を形成し、射精の質を高めると考えられる大型の筋肉質の精子ポンプも備えている。メスと比べたこうした特徴(性的二形)について白亜紀後期の貝虫93種について調べたところ、両性間の差が大きな種は最も小さい種に比べて絶滅率が最大10倍に達していたそうだ。
 この論文内容について、Turchinは絶滅したアイリッシュエルク"https://en.wikipedia.org/wiki/Irish_elk"の話を引いて説明している。アイリッシュエルクが持つ巨大な角はメスを争う過程で進化したと見られており、性選択の結果生まれた表現型と言える。つまり個体の適応度を上げる結果として角が大きくなったのだが、それはもしかしたら絶滅の原因になったのではないかとの指摘も存在していた。
 貝虫でも性選択においては殻を極力大きくするような淘汰圧がかかった。一方、今回の貝虫の化石研究によって殻を大きく成長させた貝虫の種ほどよく絶滅していることも明らかになった。「結果として多くの種ではオスの性的な投資はその中間のレベルになった」。貝虫の進化に個体レベルだけではなくグループレベルでも淘汰圧がかかった、というのがTurchinの結論だ。
 TurchinはさらにNatureがその視点を全く記していないことも指摘。彼らが「グループ選択に関する論争を欲しなかったのではないか」と推測している。彼によればこの研究が持つ含意は「爆発的」なほど大きなもので、もしかつて群淘汰を唱えたウィン=エドワーズが生きていれば「自らの正当性が立証されたと感じただろう」。以上が彼の主張である。

 正直、読んで残念な主張だと感じた。確かに性的二形性が高い種ほど絶滅の可能性が高まる傾向はあるのだろうが、それがグループ選択の証拠になるというのは論理の飛躍だろう。こちら"http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120720"に紹介されているトゥービィの指摘の通り「グループ淘汰主義者たちは『適応的なグループの性質』の存在がグループ淘汰の証拠になると思っているが、遺伝子淘汰主義者はそれは個体にとっても有利である可能性があると考える」ことができるからだ。
 Turchinは化石になった貝虫の生息環境を全く考慮することなく、彼らがアイリッシュエルクのように性差を極大化させたはずだと決めつけている。だがその証拠が存在するわけではない。貝虫の中には大きなオスを好まないメスが多かった種があったのかもしれない。殻を巨大化させるためのコストが高すぎて他の環境に恵まれた(そして最終的に絶滅した)貝虫よりは控えめな殻で満足するしかなかったのかもしれない。中間レベルのサイズになったのは、別にグループに淘汰圧がかかったからではなく、個体への淘汰圧がそのレベルを強いたと考えることもできる。
 少なくともグループ選択が機能すると主張するなら、アイリッシュエルクのように絶滅していないシカたちが自らの包括適応度を下げてでも角のサイズを大きくしないような遺伝的素養を持っていることを立証しなければならない。だがそのメカニズムを説明するのは容易ではない。なぜならすぐにフリーライダーが現れ、他のシカたちが角のサイズを抑制している間に自分の角だけ大きくして個体の適応度を高めてしまうからだ。
 これを避けるためにはそうしたフリーライダーが現れないような淘汰圧をグループ選択が与え続ける必要がある。でも絶滅という名のグループ淘汰圧が個々の個体の繁殖を抑制するようなメカニズムは、正直思いつかない。マルチレベル選択を唱える研究者たちによる説明(あるいは実験研究)も、常に異論を出されるようなもので、決して説得力は高くない"http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20170627"。
 何よりマルチレベル選択が基本的に包括適応度と等価なものであるのなら、実際の現場においてはどちらを使っても問題はないはずだ。より使い勝手のいいものを使用すればいいだけで、生物学の現場では包括適応度の方が圧倒的に使いやすいらしい"http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110111"。逆にマルチレベル選択と称する新しいグループ淘汰理論は「実際には混乱と時間の無駄しか生みださなかった」のだそうだ。

 ではなぜ理論的には包括適応度と等価であり(つまり理論的にマルチレベル選択でなければならない理由はなく)、使い勝手の面でも混乱と無駄しか生んでいない理論が今なお唱えられているのか。こちら"http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120716"ではグループ淘汰の再流行について2つの理由を挙げている。曰く「主唱者たちが騒いでいること」、及び「人々はグループ淘汰による説明を好む」。
 前者の代表例はTurchinが紹介しているDavid Sloan Wilsonだけでなく、有名な昆虫学者であるE. O. Wilsonや、さらにNatureにグループ選択論文を載せて論争を巻き起こしたNowak(こちら"http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101012"などで詳細が紹介されている)などがいる。彼らは一般向けの書物で自分たちの主張を述べているほか、TEDなどでもスピーチしているらしい。
 さらに人々が「宗教、協力、利他行為などはグループ淘汰の産物だ」という説明を好むのは、その主張に「調和的で協力的なグループ」という概念が含まれるからだという。そうした概念を歓迎するのは「利己的な遺伝子」に反感を抱く人々でもあり、特にそれは宗教的でスピリチュアルな人々において顕著な特徴らしい。実際、Wilsonらを支援している組織の中には、宗教関連の賞などを授与しているテンプルトン財団があるそうで、彼らはグループ選択を宣伝すべく資金を供給しているという。
 こういう陰謀論的な説明がどこまで正しいのかの判断は保留しておきたいところだが、グループ選択を唱える人たちが実はかなり全体主義的な色合いの強い議論に傾きがちなのは他にも見られる傾向のようだ"http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20170627"。そして、ここから先は私の個人的な感想だが、Turchinももしかしたらそういう思想傾向の持ち主かもしれない。少なくともロシア生まれの彼がトッドの言う「共同体的家族」的な価値観と親和性が高いのではないかと思う機会は、これまでも多かった。
 Turchinの一家はソ連邦時代に米国へ亡命している。だが彼がそれを理由にロシアを否定し、米国を全面肯定している様子はない。むしろ社会における協力の重要性を高く評価したがるところなど、その思信信条には個人より集団、個体よりグループに価値を置く傾向があるように見える。複雑な社会は脆弱であるという指摘、より協力的な集団ほど成功するという理論、そしてエリート間の紛争が政治体に危機をもたらすという主張、そのいずれも利己的な個人よりグループを優先する価値観を評価したがる根本的な思想傾向の反映なのかもしれない。
 もちろんこれはあくまで私の憶測に過ぎない。彼がマルチレベル選択を理論として信用しているのは何か他の理由があるのかもしれない。でも彼の理論においてグループ選択が必須かと言われると疑問だ。説明しやすい理屈にはなるだろうが、一方で包括適応度を使っても十分にエリートと大衆の人口学的な動態を説明することは可能だろう。彼らの関係が需給で決まっているのは、彼らが自らの利益のために行動していることと何の矛盾もしないからだ。マルチレベル選択に対するTurchinのこだわりは、理論ではなく個人的な価値観、もしくは信仰のようなものに基づいているのではなかろうか。
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