まず実質賃金を説明する「1人当たりGDP」「労働需給」「文化的要因」のうち、労働需給分は必要ないというのが指摘の一つ。Turchinが需給計算の際に使用した労働生産性は、統計を出している政府部局の定義に従うなら単にGDPを就業者で割った数字でしかなく、その場合、労働分配率は就業率(1から失業率を引いた数字)によって決まることになる。「失業率には長期トレンドが存在しないため、労働需給にも長期トレンドは存在しなくなる」から、分析の際には無視できるというのがその主張だ(p21-22)。
こうした問題が発生するのも、Turchinの使った労働生産性は米国のビジネスセクターのみを対象にしたものであり、それはGDP全体の75%までしかカバーしていない。政府部門や非営利部門、持ち家の賃貸価値などが含まれていないこの数字をGDP全体に当てはめるのは無理があるし、実際に「労働需給」を使わずとも「1人当たりGDP」と「文化的要因」で過去の実質賃金の推移は説明できる(Figure 1)というのが論文の主張だ。
このRを分母に、1人当たりGDPを分子において計算した数字は、1資本単位を投資した時の1人当たりネット売上高を測る指標となる。要するに資本生産性を示すわけだ。もし資本が効率的に使われているのなら、この数字は高い水準で推移するはず。実際、1871~1907年のこの数字は45前後で、また1941~2006年の数字は44前後で推移していた(Figure 5)。ところが両者の中間にあたる1907~40年にはこの数字が低下しており、1930年代には30を割り込むところまで低下している。資本の生産性がこの時期に急落していたのだ。
なぜか。資本の生産性が下がっている時代は同時に格差が大きく拡大している時期であり、それが原因だろうとこの論文は分析している。格差の少ない時期は資本が1人当たりGDPの制約要因となるため、資本は投下した分だけ付加価値を生み出す。だが格差が広がるとある段階で制約要因が資本という供給側から消費という需要側に移る。いくら生産しても需要がないため売れないという現象が起きるのだ。それ以降は資本を投入しても以前ほどの付加価値は得られず、資本生産性は低下する。
そしてこの資本生産性の低下は、やがて市場に影響を及ぼす。資本生産性が低下した1907年からおよそ10年後の1916年から資本収益率も次第に低下(Figure 4)。株価指数はバブルもあって20年代に上向いていたものの、その背後ではコンスタントに資本収益率の低下が続き、結局1929年のバブル崩壊で指数も資本収益率も資本の生産性もどん底へと落ちていった。そして足元では、2006年から資本の生産性が再び低下を始めているという。
そして資本の生産性低下は、政治ストレス指数(PSI)の上昇と歩調を合わせている。20世紀の初頭にピークを付けたエリートの収入は資本の生産性低下に合わせて下がり、逆にエリートの数およびPSIはどちらも上昇を継続。1929年にはピークをつけており、暗黒の木曜日はまさに「資本家のクライシス」となった。実質賃金の側ではなく、資本の側からの分析でも、永年サイクルの推移を浮かび上がらせることは可能なのだ。
もう一つ、この論文では農業社会と産業社会における永年サイクルの期間についても面白い見方を示している。農業社会におけるサイクルの長さは、それを動かす人口の成長率に規定されており、その率はおよそ2%。この成長率だと約2世紀でサイクルが1回転するのだと考えれば、4を成長率で割ることでサイクルの長さを想定できる。一方、産業社会において成長を決めるのは資本収益率と賃金の成長率との差で、その数値は平均4.3%。この場合、サイクルは93年で1回転することになるという(p41)。
20世紀前半の米国がそこに至ることなく格差縮小へと舵を切ろうとしたのは確かなようだ。少なくとも個人への課税は1930年代には引き上げへ向かっていた。だがそれも第一次大戦当時に一度上昇した水準に戻しただけとも言えるし、企業への税率が上がったのは第二次大戦が実際にはじまった後(Figure 7)。エリートの間にボルシェヴィキへの恐怖があった(p37-38)あの当時においてすら、4人の騎手の1人(大量動員を伴う戦争)の協力なしにできなかった「格差縮小」を、果たして現代のアメリカが実行できるだろうか。
この分析が正しいのだとしたら、経済活動がもたらす利益の大半を資本家が独占する仕組みは、タコが自らの足を食う姿に例えられるだろう。資本が高い生産性を維持するためには、生産物を買う消費者が必要。その消費者から消費能力をはぎ取るのが格差だ。いくら極端な金融緩和を進めても、それが賃金の増加につながらず、単に投資額の拡大と資産インフレをもたらすだけでは、危機の回避策としては不十分。自らが負担を背負わずに問題は解決できない、ということだろうか。
要するに最後に問われるのはエリートの公徳心であり、ノブレス・オブリージュだと言える。社会のトップにいる人間が自ら範を示そうとしないような社会に対しては誰も忠誠心など抱かず、アサビーヤは衰える一方になる。さて、2度目のサイクルを迎える米国には、どの程度のアサビーヤが残っているのだろうか。
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