ドレスデンの戦い 報告

 ドレスデンの戦いに関するシュヴァルツェンベルクの報告の翻訳を掲載する。フランス語文献Recueil des pièces officielles, Tome Troisième"https://books.google.co.jp/books?id=DXoOAAAAQAAJ"に掲載されているものの翻訳だ。なおドイツ語の報告文はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=IjtOAAAAYAAJ"の第315号内にある。

 8月26日と27日のドレスデンの戦闘に関する元帥シュヴァルツェンベルク公の報告、アルテンベルク、1813年8月29日
 フランス皇帝がラウジッツとシュレジエンに戦力の大半を集結させ、さらに彼はブリュッヒャー将軍が指揮する部隊を脅かすのみならずガベルを経てボヘミアに侵入するふりをしていると伝える確かな情報は、フランス軍の背後、エルベ河畔に向けた迅速な移動が必要不可欠であることを証明していた。
 従ってボヘミアで合流したオーストリア、ロシア及びプロイセンの兵たちは、8月24日[ドイツ語原文では22日]に4つの縦隊で宿営地を出発し、ザクセン領へとエルツ山地を越えた。極めて悪い季節であり、かつ道が傷んでいたにもかかわらず、この移動は秩序と敏速さをもって実行された。
 25日、連合軍の大半はドレスデン正面に集結し始めた。将軍ヴィトゲンシュタイン伯はギースヒューベル近くで敵に遭遇し、敵に多大な損害を与えて彼らを塹壕を掘った陣地から追い払い、それからグーヴィオン=サン=シール元帥が指揮するデュリュット師団、クラパレド師団、及びボネ師団の一部がいたオーバー=ゼドリッツ近くのギュレンベルク麓にある陣地を奪った。ヴィトゲンシュタイン将軍によって敵は大急ぎでドレスデンへ後退することを強いられた。
 26日はドレスデン及び町の入り口に設けられた砦へと強力な偵察を押し出すことで、敵の冷静さと戦力を調べるのに使われた。朝方、クライスト将軍は大庭園の名で知られ、町の外に位置する場所から敵を追い払うのに成功した。かくして我々は様々な地点を経て町へと前進した。フライベルク城壁には4門の大砲を備えた矢型堡塁があり、オーストリア砲兵はすぐにそれを破壊してその砲撃を止めた。中将コロレード伯はいつもの勇敢さとともに、執拗な抵抗にもかかわらずディッポルディスヴァルデ城壁近くに位置する同種の拠点を奪った。そこにあった大砲には、奪った他の6門同様に釘が打ち込まれた。この偉業に際しコロレード将軍は馬匹3頭を失った。猟兵第2大隊の先頭に立ち、射撃されたにもかかわらず最大の大胆さをもって前進したシュナイダー中佐は、2ヶ所に怪我を負った。同時に敵は我々の左翼に対し出撃を試みた。ヴァイセンフェルス師団とメスコ師団は最も激しい抵抗を見せ、レプデ[レプタウ]を突破し、彼らを排除しようと敵が行った努力にもかかわらずそこを維持した。この状況により戦闘はより激しくなり、砲撃は倍加し、ドレスデン郊外の家々は炎上した。
 戦闘の間に皇帝ナポレオンが親衛隊とともに町を助けるべく到着した。ラウジッツからドレスデンへと至る街道上にはかなりの兵の集団が目撃され、彼らは町へと移動していた。そこからフランス軍がシュレジエンを離れ、結果として目指していた主要な目的の一つが達成されたとの結論が出た。だがこの状況では、城壁と堀に囲まれ全軍で守られた都市を力づくで奪うよう試みるのはあまりに軽率な冒険であり、かつこの不運な首都を炎上させるのは不当な野蛮さでもあった。かくして我々は町の正面にある高地の選んだ場所へと前進した兵たちを後退させた。
 27日、敵はかなりの戦力を我々の左翼に対して配置し、ビアンキ師団とクルネヴィユ師団の勇敢な抵抗にもかかわらず味方が陣地を失い始めた時、アロイス=リヒテンシュタイン師団の到着によって状況は我らの優位へと戻った。レニエ[ライナー]大公とルジナンの2個連隊は多くの損害を被った。彼らは大胆にも前進しすぎ、敵騎兵3個連隊に打ち破られた。そして雨のために銃を撃つことができず、自らを守るのに銃剣しか使えなかった。それから敵は手ごわい砲兵に支援された集団によって我らの陣地の中央及び右側を突破しようと試みた。だが我らの兵の勇気がこれらの攻撃全てを無駄に終わらせた。将軍ヴィトゲンシュタイン伯は我々とともに騎兵に対していくつかの攻撃を差し向け、常に相手を打ち倒した。
 夕方頃、敵が強力な縦隊をピルナに対して押し出してきたとの情報を受け取った。既にケーニヒシュタイン封鎖の役を担ったオステルマン将軍が、この方面で多くの兵がエルベの橋を渡ったと報告していた。我々の右側面に向けられたこの移動は、我々のボヘミアへの連絡を妨害し、それによって全ての資源を奪われていたエルツ山地にこれ以上とどまることを困難にさせ、物資拠点へ近づくためボヘミア方面へ移動することを我らに強いた。我々の攻撃的示威行動の目的は達成されていた。スウェーデン皇太子の軍とブリュッヒャー将軍の軍は以後、前進し、精力的に敵の側面と背後で行動することができた。我々は27日夜にボヘミアへの行軍を始めた。兵たちは降っていた大量の雨によって利用不可能になっていた街道上の数えきれない困難を乗り越えた。
 26日と27日に行われたこの戦闘で、我々は勇敢なアンドラシー将軍とロシアのマレシノ[メレシノ]将軍の喪失を悔やむことになった。大将ギューライ伯、砲兵将軍マリアシー及びフリーレンバーガーは負傷し、メスコ将軍とツェチェニー[セチェン]将軍は行方不明となった。
(p56-60)

 さらにEuropäische Annalen, Jahrgang 1816 Zweyter Band."https://books.google.co.jp/books?id=28FNAAAAcAAJ"に載っているロシア軍の公式報告(ドイツ語)も翻訳しておく。

 ドレスデンの戦いに関するロシア軍公式報告
 (ペテルブルク新聞付録、9月14日付)
 連合軍によるボヘミアからザクセンへの移動の主要目的は、敵の主要戦力をシュレジエンからザクセンへ引き付け、そしてブランデンブルクにいるスウェーデン皇太子の軍がケムニッツからライプツィヒ街道の連絡路上に布陣した後に、背後のシュレジエンに残されたブリュッヒャー将軍の軍の双方とともに敵部隊の敗北を助けることにあった。
 ドレスデン前面に主力軍が到着した後、敵の強さを確認し、我々の計画が敵の背後への攻撃にあることを示すため、ドレスデンに対する強力な偵察が命じられた。26日にそれは成功裏に実施され、その際にヴィトゲンシュタイン伯の軍団は大砲4門を奪った。夕方、戦力8万人の敵が町から出撃し、町の砲兵隊に守られながら立ちはだかった。この日、サン=シールを増援するためナポレオン自身が全親衛隊、及びラトゥール=モーブールの予備胸甲騎兵とともに到着したことを捕虜が明かした。
 翌日、敵は我々の陣地の様々な地点を何度か攻撃したが、あらゆる場所で撃退された。夕方、彼らは親衛隊で我らの右側面を攻撃したが、グロドノ・ユサール連隊とプロイセンのユサール連隊によってこれも押し戻された。この際には500人の捕虜を得た。夜にかけて彼らは市壁へと後退した。ヴァンダンム軍団とヴィクトール軍団がケーニヒシュタイン近くでエルベを渡り、その行動によってテプリッツ街道を脅かしていることを知った元帥シュヴァルツェンベルク公は、全軍で右側への側面移動を行ってザクセンとボヘミアを隔てる隘路の背後に布陣し、これらの狭い街道を通る敵の行軍を待ち構える必要があると感じた。
(p328-329)
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