承前。26日に連合軍司令部で決まった攻撃中止命令をシュヴァルツェンベルクがうまく兵たちに伝達できなかったという彼への批判が根拠に乏しいものであることはこれまで説明してきた。だが彼に対する批判はそれだけではない。もう一つ、前日の25日時点で早急にドレスデン攻撃を決断しなかったことを理由に彼を非難する意見がある。
例えばThiersのHistoire du consulat et de l'empire, Tome Seizième"
https://books.google.co.jp/books?id=qWo9AAAAYAAJ"によれば、25日の時点でジョミニを先頭にロシア皇帝の助言者たちが平野に展開しているサン=シールの3個師団を見てすぐ攻撃を仕掛けるように主張した。それに対しモローは、圧倒的な大軍を前にサン=シールが開けた地にとどまることは予備部隊あるいは防御施設抜きではあり得ないと指摘し、より慎重な対応を求めた。
そうした議論の最中に「シュヴァルツェンベルク公は、いずれにせよ第4の縦隊がまだ到着していないため攻撃を1日遅らせる必要があると述べた。かくして決定は翌26日に延期された」(p285-286)というのがThiersの説明だ。
もちろんこの話の元ネタもジョミニである。彼のVie politique et militaire de Napoléon, Tome Quatrième"
https://books.google.co.jp/books?id=UI4TAAAAQAAJ"には「しかしシュヴァルツェンベルクは彼のオーストリア軍を待とうとして(中略)彼は攻撃を8月26日の午後4時まで延ばした」(p383-384)と書かれている。Thiersの話もこれを引用したものと考えられる。ただしジョミニの文章にはモローに関する言及はない。
モローもまた時を失うことなく敵を攻撃するよう助言した。それに対し「シュヴァルツェンベルク公と他の何人かの将軍はこの見解に同意せず(中略)元帥はそこにいあわせた他のものと同様に、敵の数が少ないことを明白に見て取れたにもかかわらず、全てのオーストリア軍団が合流してからのみ攻撃の開始を望んでいた」(p137-138)という。
残念ながらミハイロフスキ=ダニレフスキの本には、他の古い一次史料との間の矛盾が多い。ボヘミア軍の作戦目的が「ザクセンの首都を奪うことにある」というのは、シュヴァルツェンベルクが会戦直後に書いた報告書で指摘している「ナポレオンをブリュッヒャーから引き離すため」という目的とは一致していない。また25日時点でモローが即座に攻撃すべきだと言ったとの話も、キャスカートが書き残したモローによる「ドレスデンを攻めてはいけない理由」一覧と引き比べると、とても同一人物の発言とは思えない内容だ。
ただし、前回も紹介したNapoleon: The End of Glory"
https://books.google.co.jp/books?id=rNzHAwAAQBAJ"にはその内容が紹介されている。曰く「スヴィニンによると攻撃を提案したのはシュヴァルツェンベルクであり、反対したのはモローとトールだけだったが、最終的には彼らがアレクサンドルを口説き落とした」(p120)のだという。何のことはない、25日の攻撃が見送られたのはオーストリア側ではなくロシア側の責任だったということだ。
これを裏付ける他の史料もある。シュヴァルツェンベルクが夫人に宛てて書いた手紙をまとめたBriefe des feldmarschalls fursten Schwarzenberg an seine frau"
https://catalog.hathitrust.org/Record/001599708"がそれだ。これまたネットでは中身の確認ができないのだが、Napoleon: The End of Gloryによれば10日後に彼が書いた手紙に「ドレスデンは私が命じたように私が望む日にではなく、その翌日に攻撃される」ことになったとあるそうだ。
Feldmarschall Fürst Schwarzenberg"
https://books.google.co.jp/books?id=mQlIAAAAMAAJ"のp229にはドイツ語の原文もある。曰く"Unter uns gesagt, bei Dresden griff man nicht an, als ich es befahl, Dresden selbst wurde nicht an dem Tage angegriffen, wo ich es wollte, sondern am folgenden Tage"。ここまで明白に書かれている以上、シュヴァルツェンベルクが25日時点での攻撃に反対したという説の信頼度はかなり下がると見るべきだろう。
ちなみにこの手紙の存在は、クラム=マルティニッツによるシュヴァルツェンベルク擁護が成り立たないことも同時に証明する。クラムによればシュヴァルツェンベルクは25日の時点でドレスデンからの退却を提案していたはずなのだが、彼自身の手紙ではむしろその日に攻撃を仕掛けようとしていたことが明らかだ。
こうした事情を踏まえてか、最近の本の中にはThiersやPetreのようにシュヴァルツェンベルクが25日中の攻撃に反対したとは書いていないものも出てきた。Russia at War"
https://books.google.co.jp/books?id=KTq2BQAAQBAJ"の中では、8月25日時点で「ナポレオンはまだそこ[ドレスデン]にいなかった。シュヴァルツェンベルクとジョミニは即座に襲撃したいというロシア皇帝の望みを支持したが、モローとトール子爵カール将軍(ロシアの軍務に就いているプロイセン人)がそれに反対した。攻撃は最終的に翌日まで延期された」(p255)とある。
古い一次史料と、それと平仄の合う史料を合わせてこの日の状況を考えるなら、シュヴァルツェンベルクが攻撃を主張し、それに少なくともモローが反対したところまでは間違いないだろう。そして最終的に25日に書かれた命令文が翌日の攻撃を命じているところから見るに、シュヴァルツェンベルクの主張は退けられ、おそらくはモローに説得されたロシア皇帝の決断が軍の決断となった。トールの役割になるとそれほど明確ではないが、反対した可能性はある。
ジョミニはどうか。彼がサラザンに書いた手紙の中には「私の懇願にもかかわらず、攻撃は26日夕方4時からとなった。あたかもこれほど活動的な敵に対し、30時間は戦争において何の意味もないかのように」(p20)という文言がある。残念ながらこれだけではジョミニが25日にどのような主張をしたのかは分からないが、ドレスデンに対してすぐ攻撃せよと主張したと考えても矛盾はしない言い回しだ。つまりRussia at Warに書かれている内容は、真っ当な史料とそれほど食い違ってはいない。
ドレスデンの戦いにおけるシュヴァルツェンベルクは、まるで両手を縛られた状態で取っ組み合いをさせられたようである。彼が連合軍の司令部を指揮するという仕事にうんざりしていたという話は各所で見かけるのだが、この8月25日と26日の出来事を見るだけでもその苦労はよく分かる。
そして、連合軍の作戦をさんざんひっかきまわした連中が、後になって口を拭って責任をシュヴァルツェンベルクに押し付けていることも、これまたはっきりとする。まさに死人に口なし。生きている間だけでなく死んだ後もこういう連中に迷惑をかけられるシュヴァルツェンベルクの姿には、まさに「ザ・中間管理職」といった趣がある。心の底から同情を禁じ得ない。
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