命令変更説 4

 承前。探した限り、ドレスデンの戦いについて「攻撃中止の命令が伝達されなかった」と主張している事例はジョミニ以前には見当たらなかった。交戦直後の時期に書かれた各種の報告にはそうした言及が見当たらないうえに、実はジョミニ自身ですら古い時期に書いた手紙の中ではそんな話をしていない。誰も言及していない「命令変更決定→伝達に失敗」という経緯があったと考えるより、連合軍は途中で命令を変更することなく淡々と攻撃に踏み切ったと見なす方が、ごく自然な解釈だろう。
 なぜジョミニは途中で発言を翻したのだろうか。そこで思い出すのがこちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56335236.html"。ウルム戦役においてドナウ左岸をほぼ空にした責任をミュラに押し付けた文章を書くことで、彼が自分の役割を過大に見せようとした事例だ。実際の責任はミュラだけでなくもっと大勢の人間にあったし、ジョミニ自身ですら対応の遅いネイ軍団の参謀としてその一端を負っていた。だがジョミニはその事実を文章で捻じ曲げた。
 ドレスデンの戦いについて彼がやったことも同じだ。現実のジョミニは無力な存在でしかなく、彼の意見が司令部に広く受け入れられた様子はない。ウィルソンやキャスカートらもモローについては何度も言及しているものの、ジョミニについてはごく僅かしか触れていない。それだけの存在に過ぎなかったジョミニは、事実を捻じ曲げた文章を書くことで自らがもっと重要な役割を果たしていたかのような体裁を整えた。古い一次史料に出てこない逸話が出てきたきっかけは、おそらくそこにある。
 責任をシュヴァルツェンベルクに押し付けたのは、彼が既に死んでいたからだろう。ナポレオンがクレベールの死後になってタボール山の戦いに関する自分の発言に関するちゃぶ台返しを行ったのと同じである。その意味では似たもの主従と言えるかもしれない。
 困ったことにそれにロシアのミハイロフスキ=ダニレフスキが便乗した。彼は1813~14年に皇帝の取り巻きとして戦役に参加し、そこで他国との書簡のやり取りと軍事作戦に関する日誌執筆を担当したという(Russian Officer Corps of the Revolutionary and Napoleonic Wars"https://books.google.co.jp/books?id=j2BwBPz4QFQC" p254)。彼の狙いは分からないが、ジョミニの逸話を採用することで皇帝の正しさや司令部内における影響力の大きさを強調できる点が気に入られたのかもしれない。
 プロイセン側の歴史家がこの話を採用したのも、同様にナショナリズムが背景にあると考えられる。ミハイロフスキ=ダニレフスキの記録を使うことで、プロイセン王が敵に背中を見せることを拒んだことが強調できる。そのうえで作戦の失敗は自分たちではなくオーストリア側に押し付けられるのだから、おいしいエピソードと言えるだろう。かくしてジョミニの作り出した逸話が次第に広まっていった。
 もちろんオーストリア側はこの話を手厳しく批判している。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=cV4-AQAAMAAJ"ではジョミニについて「間違いなくこの[連合軍]司令部内で人気がなかった。常に手厳しく批判してくる人間とは友人になれない」と指摘している。さらに「ドレスデンの戦いはシュヴァルツェンベルク、ラデツキー、ランゲナウ及びオーストリア軍参謀たちを非難する十分な機会をジョミニに与えた。だが客観的に判断するなら、当時の記録も目の前に置くべきである」(vii)とも述べている。

 そしてもう一つ、最近の本には違った形でシュヴァルツェンベルクの擁護を図るものがある。Munro Priceの書いたNapoleon: The End of Glory"https://books.google.co.jp/books?id=rNzHAwAAQBAJ"がそれだ。同書ではシュヴァルツェンベルクの副官だったクラム=マルティニッツ"https://de.wikipedia.org/wiki/Karl_Clam-Martinic"の残した回想に基づいた議論を行っているのだが、この回想は個人の手元にあるそうで過去の研究にはあまり使われていない。それだけに重要な史料であるというのが著者の主張だ。
 クラムはシュヴァルツェンベルクの目的がドレスデン奪取ではなく、ブリュッヒャーに対するナポレオンの圧力を取り除くことにあったと指摘。ナポレオンが確実にドレスデンに向かっていると分かった時点で、彼は後退を提案したという。「シュヴァルツェンベルクはこの見解を採用し、25日午後に開かれた会議でこの見解に基づく意見を述べ、ドレスデン奪取は主要目的ではなく現状では達成不可能な副次的目標にすぎないこと、そしてナポレオンの帰還によって既に成功が得られたのだから退却すべきだと提案した。だがアレクサンドルとモローは戦いを欲し、26日に攻撃することが定められた」(p123)
 筆者はクラムの証言を退けるべきではなく、それは彼の慎重な性格に合致していると主張している。だがこれは無理がありすぎる主張だろう。そもそもこれまで指摘した通り、モローが徹頭徹尾ドレスデン攻撃に反対していたことはウィルソン("https://books.google.co.jp/books?id=3SIMAAAAYAAJ" p91)やキャスカート("https://books.google.co.jp/books?id=mQMKAAAAIAAJ" p216)の証言によって裏付けられている。そのモローが攻撃を欲していたと証言している時点で、クラムの回想なるものの信用度はかなり落ちると考えていい。
 それにシュヴァルツェンベルクの報告を見ても、ナポレオンを引き付けることが目的だったという点では平仄が合うが、ナポレオンが来たから退却すべきだと主張したという話はどこにも載っていない。また25日の時点でナポレオンがドレスデンに向かっていると確証を得たと取れる記述も見当たらず、クラムの証言とは一致しない言及が多い。
 クラムの回想がこれまでの研究であまり取り上げられなかったのは事実だろう。新しい材料を提供すること自体は歴史研究への寄与になるのは確かだ。しかしそれが目新しい史料だからといって、それだけで重要視すべきだと主張するのはおかしい。史料の重要度はあくまでその史料そのものの書かれた時期や執筆者の立場、他の史料との整合性といったものから導き出すべきである。クラムの史料はあくまでErinnerungen"https://books.google.co.jp/books?id=z0_gBQAAQBAJ"、つまり回想なのだから、より古い史料よりは信頼度が低い。彼の主張が史実である可能性はジョミニ同様に低いと思う。

 ただし古い史料だからと言って全面的に信じていいわけでもない。念のために述べておくと、ウィルソンが述べている「4時の攻撃命令が2時に出た」という主張は怪しいと思う。なぜなら前日25日にネトニッツの司令部からシュヴァルツェンベルクが出した命令文なるものがあり、その中に「町への砲撃と左翼の前進は正確に午後4時に行う」という文言が含まれているからだ。
 この命令はドイツ語がFriederichの本"https://archive.org/details/bub_gb_HOkaAAAAYAAJ"(p448)に、フランス語がこちら"https://books.google.co.jp/books?id=a6tCAAAAYAAJ"(p36)に載っている。古くは1816年に書かれたDer Krieg in Deutschland und Frankreich"https://books.google.co.jp/books?id=coFBAAAAcAAJ"(p42-43)にこの命令が採録されているので、それなりに信頼度が高いものだと思われる。
 そしてウィルソン以外に26日午後2時に攻撃命令が出たと述べている史料はない。そもそも25日の時点で攻撃は翌日からに決まったという説明が大半だ。実際には午後4時まで動きがなかったわけではなく、特に連合軍右翼側は朝からドレスデン外縁部に展開していたフランス軍を相手とした前哨戦をずっと繰り広げていた(Friederich, p451-455)。午後4時という時刻は、あくまでドレスデン市そのものに向けての砲撃開始、及び到着に時間がかかった左翼の前進開始時間だったと見るべきだろう。

 以上で26日の連合軍司令部であった出来事に関する考察は終わり。ジョミニの1827年の証言や、それを受けたミハイロフスキ=ダニレフスキの本に出てくる逸話は、古い史料に見当たらたないため信頼度は低いというのが結論だ。ナポレオンの到着に連合軍が気づいていた可能性はあるが、それを理由に26日時点で攻撃の中断や後退を決めた事実はおそらくない。連合軍は前日の決定通りに戦闘を進め、ナポレオンの到着はその作戦計画に影響しなかったと見るのが妥当だろう。
 実はそれとは別に、前日25日に連合軍司令部で何が起きていたかに関する議論もある。ただし今回は長くなったので以下次回。
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