承前。ドレスデンの戦いの最中にあったと言われる「攻撃中止と後退の決断」及び「その命令が伝わらなかったこと」は、果たして事実なのか。古い一次史料にあたって調べてみる。まずは渦中の人物、ボヘミア軍司令官シュヴァルツェンベルク公の証言だ。
彼はまず、ブリュッヒャーのシュレジエン軍を脅かすべくナポレオンが動いたことに触れ、フランス軍の背後に向けて素早く移動する必要が出てきたと説明。25日にはオーストリア、ロシア、プロイセン軍から成る連合軍の大半がドレスデン正面に集結した。既にこの日のうちに連合軍の一部部隊はドレスデンを守るグーヴィオン=サン=シール軍団と交戦を行っている。
26日は「ドレスデンと町の入り口に設けられた砦まで強力な偵察を押し出すことで、敵の冷静さとその戦力を試すことに使われた」とシュヴァルツェンベルクは述べている。そしてこの日の午前中に行われた交戦、さらに午後のドレスデンそのものに対する攻撃について説明したその後で、「戦闘の間に、町を救援するため皇帝ナポレオンが親衛隊とともに到着した」(p58)ことに言及している。
シュヴァルツェンベルクはこの動きを見て「フランス軍がシュレジエンを去り、結果として目指していた主要な目的が達成された」と結論づけた。ただしこの状況では町を落とそうと試みることはあまりに軽率な冒険だと判断し、「町の正面の高地に選んだ陣地へと、前進した兵たちを後退させた」(p59)。以上がシュヴァルツェンベルクの説明するドレスデンの戦いの経緯だ。
見ての通り、他の古い史料と同じく攻撃の中止や後退に関する記述は見当たらない。もちろん批判の的となっているシュヴァルツェンベルク自身の証言だけに、注意深く扱わなければならないのは確かだ。またよくあるケースだが、何の言及もないのはその事実がなかったからではなく、自分に都合の悪い話について口を閉じた結果ということも考えられる。それでも問題となっている件について3日後の史料に何も書かれていない点は無視できない。
ウィルソンによれば「2時頃、連合軍の砲兵隊が町に対する作戦を4時から始めるとの命令が出された」(p91)。その際に興味深い幕間劇があった。これからの行動について様々な見解が出されたようで、その中でもロシア皇帝とモローが襲撃に反対したそうだ。彼は3時頃に皇帝の周辺から離れて最前線へと向かい、そして「4時頃、砲撃が敵に対して、特に堡塁に向けて激しく始まった」という。
ウィルソンの証言を額面通りに受け取るなら、連合軍は午後2時になってようやく午後4時からの砲撃開始を決断したことになる。これは午後1時に攻撃中止と後退を決めたというジョミニらの見解とは真逆だ。もし連合軍が本当に攻撃中止を決めたのだとしたら、それは彼が皇帝の近くを離れた午後3時以降でなければ辻褄が合わない。しかし午後3時というのは文献によっては砲撃が始まった時刻でもある。少なくともジョミニの言うように攻撃撤回の時間が十分あったとは言えなくなる。
キャスカートによれば会戦の前日夜、モロー将軍は葉巻を吸いながら流暢な英語で彼らと話をしたという。彼はドレスデンへの攻撃に反対で、「要塞はいい状態に修復されており、町中も郊外も家々には銃眼が設けられている。3万5000人の守備隊がいて、それでも我々が展開できる優勢な戦力を使い決意をもって攻撃すれば奪取することはできるだろうが、5000人か、もしかしたら1万5000人の被害が出る。我々は既にナポレオンの連絡線上におり、町の奪取は目的ではない。町は将来、自ら陥落するだろう」(p216)と述べたそうだ。
しかし翌26日の記述は簡単である。連合軍の攻撃については、シュヴァルツェンベルクの報告書にある「強力な偵察」という言葉を紹介するくらいで、ウィルソンの言及している司令部内での議論にすら触れていない(p218)。またナポレオンの到着についても言及はしているが、あくまで彼がどのようにシュレジエンからドレスデンまでやってきたかを説明するだけで、それが連合軍の司令部に影響を与えたかどうかについては全く述べていない(p220-222)。
同じ新聞には、やはりロシア皇帝の司令部に派遣されていたチャールズ・ステュワートが28日にアルテンベルクで書いた報告(p441-442)も採録されている。彼もウィルソン同様に日付を1日間違えているのだが、そこには「兵たちは夕方4時に襲撃に移った」(p441)ことが書かれているものの、その前に攻撃中止や後退が決まったとは一言も書かれていない。会戦から間もない時期の英軍関係者の記録は、ジョミニの話す逸話が見当たらない点で共通している。
「26日の午前、夕方4時に全戦線で5つの主要部隊によって行われる全面攻撃の準備がなされた。私はこの命令書を、それが全部隊に既に送られた6時間も後にたまたま読んだのだが、私が前日に与えた現実的な戦争知識に関する慎重な実行と計算された見解は間違いなくそこになかった。陛下[ロシア皇帝]自身もこの計画には満足しておらず、私はこのような変更がもたらした苦痛を隠しもしなかった。私に何ができただろう? 最も経験豊かな将軍であっても、私のように巨大な機構の真ん中で何の機能も持たされず、それぞれが自らの主張と特段の利害を持つ顔も知らない100人もの連合軍の将軍たちに囲まれ、軍事的な問題を自ら指揮したいと欲している政府の大臣たちの真ん中にあって、一体何ができただろうか。(中略)ナポレオンが26日の午後1時頃、7万人の兵とともに到着したことが知らされ、25日11時にはとてもよかったことが、26日夕方4時にはもはや正しいことではなくなっていた」
p20-21
彼が連合軍司令部の中でも特にオーストリア軍関係者を批判していたこと、彼らの攻撃計画に反対だったことは分かるが、この計画が中止され後退が決まったという記述はどこにもない。いやむしろ、彼自身が「私に何ができただろう」と嘆いていることからもわかる通り、実は彼には何もできなかった。ジョミニが主張した攻撃反対論が採用されなかったことに対する不満を、彼自身がこの手紙の中でぶちまけている。
何のことはない。ジョミニは1827年より前の段階では「攻撃中止と後退が決まったのにその命令が何らかの理由で実行されなかった」という主張はしていないのである。単に「俺は反対だったが攻撃は実行された」としか、彼は言っていない。
以下次回。
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