オルレアンの狙撃手

 大砲少女ジャンヌ・ダルク"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56003297.html"が名を挙げたオルレアンの攻囲戦において、既にフランス側に狙撃兵がいたという話を以前述べた"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55631463.html"。この狙撃兵について記録しているのは、以前に紹介した"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56508440.html"日記であり、その人物の呼び名は「ジャン親方」maistre Jehanだ。
 19世紀にまとめられたJournal du siège d'Orléans"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k102284m"の脚注(p18)によると、エモン・ラギエの記録に「キャノン使いであるジャン・ド=モンテジレに140エキュが与えられ、彼はアンジェを発って自分の仕事で王に仕えるべくオルレアンに送られた」という文章があるほか、要塞記録なるものに「キャノン使いであるジャン親方」という言い回しが出てくるそうだ。
 攻囲日記に彼の名が最初に登場するのは1428年のクリスマスに関する記述の部分だ(フランス語は"https://books.google.co.jp/books?id=ZdHLJIbEVwUC"のp12-13、英訳は"https://books.google.co.jp/books?id=v9MGAAAAQAAJ"のp10-11)。内容は以下の通り。

「クリスマスの祭の間、ボンバルドとキャノンからの恐ろしい射撃が行われた。だが砲兵たちの中でも何より多大な損害を与えたのは、ロレーヌ生まれでその時オルレアンの守備隊にいたジャン親方であり、彼はこの仕事の最大のエキスパートだった。そして彼はそのことをよく示した。彼は大きなクルヴリーヌを持ち、美しい十字架のある通り近くにある橋の柱の間からそれをしばしば巧妙に放ち、多数のイングランド兵を殺すか負傷させた。そして彼らを嘲笑うように、しばしば地面に身を投げ出し、死んだか怪我をしたふりをして町中へと運ばせた。だが我慢しきれずに戦闘へと戻り、分かるように行動したため、イングランド軍は彼が生きていることを知り、それは彼らに多大な悲しみと不愉快さをもたらした」

 次に彼の記述が出ているのは12月30日の記録で、「そしてこの日の間ずっと、ジャン親方は彼のクルヴリーヌで多大な損害を与えた」(フランス語のp14、英語のp12)というシンプルな一文がある。次は1429年1月6日の記述に出てくる「この小競り合いの間、ジャン親方は彼のクルヴリーヌとともに勇敢に活動した」(フランス語のp18と英語のp12、実は英語はこの前の部分がかなり省略されている)だ。
 そして割と長い記録があるのが1月18日(フランス語のp22-23、英語のp16-17)。正直、英語版を読んでも意味が分かりにくい部分があるのだが、元の中世フランス語はさらに分からないため、理解できる範囲で翻訳している。

「この小競り合いの間に、長期にわたって大きな危険を与えてきたジャン親方のクルヴリーヌが失われ、敵に奪われた。彼が建物の陰に退却しようと考えた時、他の者が同時に殺到したため、彼は川へ落ちてしまい、そこで大きなボートを使ってクルヴリーヌを取り戻そうとしたが成功できなかった。そこで彼は急いで木材をつかんでしがみつき、これらすべての不運にもかかわらず、岸にたどり着くまでそれと一緒に泳ぎ、自らは町へ逃げ込んだが、彼のクルヴリーヌは英軍の手に残り、彼らはそれをトゥーレルへと運んだ」

 クルヴリーヌがどのように失われ、どのように敵の手に落ちたのかが分かりにくい。その次は3月3日の記録に出てくる「さらに加えてジャン親方のクルヴリーヌからの2発で5人が殺された」(フランス語のp50、英語のp39)という一文。そして最後にオルレアンの解放後、ジャルゴー攻囲の最中に行われた6月12日の戦闘において、フランス軍相手に奮闘する完全武装の大柄な英兵に対して行われた狙撃についての記述がある(フランス語のp101、英語のp83-84)。

「クルヴリーヌの射手であるジャン親方がクルヴリーヌで狙いをつけられるよう、アランソン公が彼[城壁で抵抗する敵]を指さした。全員に力強く姿をさらしていた英兵の胸に銃弾が当たり、かくして彼は明らかに殺され、町中へと落ちた」

 以上がジャン親方に関する日記の記述全てだが、問題はここに出てくるクルヴリーヌがどのような武器であるか。この時代のクルヴリーヌには2種類あり、1つは土台や車に乗せた小型の砲("https://fr.wikisource.org/wiki/Les_Merveilles_de_la_science/L%E2%80%99Artillerie_ancienne_et_moderne"のFig. 197)で、もう一つは手持ち式の火器であるcouleuvrines à main"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Coulevriniers.jpg"だ。
 記事中に土台や車両についての記述が全くない点、ジャンがかなり機動的に狙いをつけて特定の個人を狙撃している点などを踏まえるなら、これが銃である可能性は高い。実際、Medieval Handgonnes"https://books.google.co.jp/books?id=PV61CwAAQBAJ"では、以下のような理由からこれが手持ち式の銃だと推定している。

「イングランド軍のオルレアン攻囲から開放するための1429年戦役中に、フランス軍はその戦列にジャン・ル=カノニエと呼ばれる有名な射手を持っており、彼はクルヴリーヌを大いに効果的に使った。クルヴリーヌは小さな大砲あるいは大きなハンドゴンだった可能性がある。ジャンの名前[Cannonier]にもかかわらず、彼がイングランド兵個人の狙撃に特化していたことから、このクルヴリーヌは十中八九ハンドゴンだった。ある時、彼は戦いにおいてトラブルをもたらしていた特に大柄でいい武装をしたイングランド兵を撃ち倒すよう命じられ、特に明白な困難もなくそうした。ジャンヌ・ダルクの軍とともにロワール河畔の城々を奪い返しに行ったとき、ジャン親方は何人かの最良のイングランド側守備兵を城壁から撃ち落とした。この時期に個人を狙うのに十分扱いやすい車両あるいは土台があった証拠が存在しないため、ジャンが大砲を使っていたとは想像しがたい」
p76

 実際にはジャンが「2発で5人の兵を殺した」事例もあるので、絶対にこれが銃であったと断言するところまでは行かないかもしれない。でも基本的にジャンが使いこなしていたのがハンドゴンである可能性が高いのは確かだろう。

 最後にMedieval Handgonnesではジャンの姓が「ル=カノニエ」であるかのように記しているが、元の日記を見る限り彼の姓についての記述はなく、他の記録を見ても冒頭に書いたように「ド=モンテジエ」というのは見られるが「ル=カノニエ」という言い回しは職業を指し示すもの以外では見当たらない("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k102284m" p324など)。
 ただし、1661年に出版されたHistoire du roy Charles VII"https://books.google.co.jp/books?id=ZCZfAAAAcAAJ"には、ジャルゴー攻囲について触れた部分の中にイタリック体でIean le Canonnierと書かれたものがあり(p516)、もしかしたらこれが勘違いを呼び起こした可能性はある。でも日記でこの部分を確認するとmaistre Iean le Couleurinierとなっており、そもそも元は「カノニエ」ではなく「クルヴリニエ」だったことが分かる。これは彼の姓ではなく、あくまで職業を示す記述と考えるべきだろう。
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