タボール山の戦い 5

 承前。タボール山の戦いについて書かれたクレベールの報告書はとても興味深く、そしていくつかのナポレオン伝説を否定する材料となるものだ。順番に指摘しよう。

 まず冒頭でクレベールが述べている「敵がジェナン峡谷とナザレ峡谷に集まっていることを知るや否や、私は彼らとヨルダン川の間に入り込むべきだと考えました。これはあなたの指示の要点です。バザール経由の行軍はこの目的を満たすものでした」の部分だ。以前にも述べた通り、これはクレベールの作戦がボナパルトの意図に従ったものであることを明確に述べている。
 少なくともクレベールは「彼ら[敵]とヨルダン川」の間に入り込むこと、つまり敵の背後に回り込むことが、ボナパルトの「指示の要点」だと考えていたのは間違いない。そして実際、これまでも指摘したように13日の命令でボナパルトは背後に回り込むことを躊躇うなとクレベールを使嗾している。クレベールはこの部分こそ指示の要点(point)と考えた。
 そもそもボナパルトは同じ13日にミュラに対して、サフェットを囲む敵の連絡線を遮断するべく背後のヤコブ橋へ回り込むよう命じているし、その事実をクレベールにも伝えている。背後を奪うことでオスマン軍が「サフェットの攻囲を解き、散り散りになることを余儀なくさせる」のが狙いであり、逆に言えばオスマン軍を相手に背後を遮断する効果は大きいとボナパルトが確信していた様子が窺える。
 また彼の命令には繰り返しヨルダン川への言及が現れる。つまり前進してくるオスマン軍を迎え撃つのではなく、彼らの集結地より東にあるヨルダン川まで、もしくはその向こうまで敵を撃退することが重要だと司令官が見做していたことが読み取れるのだ。ナザレで足を止めて敵の様子を見るのではなく、もっとアグレッシブな対応を求められていることは、ボナパルトの命令を読んでいれば否が応でも感じたのではなかろうか。
 加えて同じタイミングでミュラがヨルダン川にかかるヤコブ橋へ向けて作戦行動中だったのも、クレベールの判断に影響を及ぼした可能性がある。さすがにヤコブ橋の戦いで彼が勝利し一部の兵は対岸でその夜を過ごしたことを、クレベールがタボール山の戦い前に知るのは難しいと思うが、それでも消極的になるのは拙いという圧迫感を受ける一因になったと見ることはできる。
 いずれにせよ、敵の背後に回り込むこと自体を批判したセント=ヘレナのナポレオンによる主張が筋違いなのは確かだろう。クレベールが批判を浴びるべきだとすれば、それは実行の際の困難を甘く見ていた点であり、作戦のコンセプトそのものはやはりボナパルトの示した「要点」に従ったものだからだ。ナポレオンの批判は他ならぬ彼自身に跳ね返ってきてしまう。

 次にジュノー旅団の動きについて。前に述べた通り、クレベールのジュノーに対する事前の指示が今一つ明確でないため、彼がどこでクレベールと合流したのかがよく分からなかった。バザールで合流し一緒にタボール山を迂回したのか、それとも迂回後のクレベール部隊と直接フーレで合流したのか。会戦報告を見れば、そのあたりは以前よりははっきりする。
 クレベールは報告の中で「[芽月]26日、私の師団は合流し、夜明けの1時間前に敵宿営地に到着しそこを奇襲できると期待しながら、同日午後10時に我々は移動を始めました」と書いている。最初に紹介した通り、ジュノーは3月中旬以降、クレベールの下で旅団長を務めていた。またクレベール師団が会戦前にサフレーとナザレに分かれて駐屯していたのもこれまで説明した通りだ。この報告書によって彼らが芽月26日、つまり4月15日に「合流した」ことがはっきりした。
 どこで合流したかは書かれていないが、その日の午後10時に夜襲を期待して移動を始めたのだとすれば、合流地点が実際の戦場となったフーレである可能性はほとんどないと見ていいだろう。ナザレとフーレ(アフーレ)との距離は現代の地図で見てほんの13キロほど。いくら夜間で分かりにくい道だとしても8時間も行軍に時間がかかったとは考えにくい。それに対しバザールとフーレならその距離は20キロまで伸びる。時速2.5キロという移動速度は、夜間で車両があれば十分にあり得る速度だ。
 クレベールは15日の午前6時半にサフレーを出発しているので、その日の日中にバザールまで到着するのは十分に可能だっただろう。ジュノーも同じく同日中にナザレを発し、バザールでクレベールに合流したと考えてもおかしいところはない。やはりジュノーとクレベールはタボール山の戦いでは肩を並べて迂回移動を行い、一緒に会戦へと進んでいったのだろう。

 もう一つはボナパルトの到着に関する逸話だ。以前、この戦いを取り上げた時"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/50629696.html"にも紹介したのだが、セント=ヘレナのナポレオンによれば、クレベール師団がボナパルトの援軍に気づいた場面は以下のようになる。

「クレベール将軍はどうするべきか熟考した。彼の状況は過酷だったが、その時突如として兵士たちが『ちびの伍長が来た』と叫んだ。幕僚たちがこの騒音についてクレベール将軍に指示を仰ぎに来た。彼は激怒し、それが不可能だと実証し、議論を続けるよう命じた。だがナポレオンの機動に慣れていた古い兵士たちは繰り返し叫んだ。彼らは銃剣の輝きを見たと思ったのだ。クレベールは高地に登り望遠鏡を構えた。幕僚たちも同じことをしたが、何も見つからなかった。兵士たちも自分たちが間違ったと思った。希望の光は消え去った」

 セント=ヘレナのナポレオンによればこの後に「砲兵の斉射」によって彼らの移動が明かされたことになるのだが、ここまで紹介したクレベールの報告にはこの「銃剣の輝き」に関する言及は一切ない。あくまで彼がボナパルトの軍勢の到着を認識したのは砲声によってであり、さらにその記述は公式戦史とも一致している。
 加えてセント=ヘレナのナポレオンによれば、クレベールは途中で大砲と負傷者を放置し、残った兵でナザレの高地まで突破する準備をしていたと書かれている。日没まで抵抗を続け、夜間を利用して勝ちを得ようと考えていたと書かれているクレベールの報告書とは、ここの部分も随分と違っている。基本的にセント=ヘレナで書かれたものは信用しない方が安全であることを示す一例だ。
 一つ気になるのは、15日にボナパルトがクレベール宛に出した命令(p89)は届かなかったのかどうかだ。ベルティエが出したこの文章の中には司令官がボン師団の一部とともにナザレとフーレの間に布陣することが明確に言及されている。もしこの手紙がクレベールの手元に届いていたなら、ボナパルトの到着はクレベール師団にとって予想外でも何でもなくなり、想定通りの事態に過ぎなくなる。
 クレベールの報告書を見る限り、彼がボナパルトの到着を予想していた様子はない。つまり彼はこの命令を受け取らなかったと考えられる。なぜだろうか。手紙の内容を見るにこの文章は15日の昼、ボナパルトがアクル前を出発する以前に送られたと考えられるのだが、その時間には既にクレベールはサフレーを発してバザールへ向かっていた。そして同日夜10時にはそのバザールも出発している。この時間までに伝令がクレベールのところに到着できなければ、確かにボナパルトの来援を知ることはできない。
 アクルとバザールの距離は現代の地図で50キロくらいある。伝令が効率よく移動できれば十分クレベールに命令を伝えられる距離だと思うが、一方で何かトラブルがあれば伝達が間に合わない可能性も十分にありそうな距離だとも言える。実際50キロというのは1815年戦役におけるシャルルロワとブリュッセル間の距離とそう変わりはない。そしてツィーテンの伝令はこの距離を移動するのにおよそ9時間をかけた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/brhfdkw.pdf" p1)。欧州より土地勘のない地域において正午の伝令が午後10時に50キロ先の目的地にたどり着けない可能性は十分にありそうだ。
 ボナパルトはやはり幸運だったのだろう。司令官が救援に来ることを知らないクレベールがもし早々に撤収を決断していたら、彼の機動は無駄に終わっていたかもしれない。ボナパルトを当てにせず自力で何とかしようとクレベールが踏ん張ったからこそ、タボール山の勝利がボナパルトの手元に転がり込んだと解釈することもできるのだ。

 以下次回。
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