承前。クレベールの支援に向かうことを決めたボナパルトはボン将軍に命令を発した(La Bataille du Mont Tabor"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121737s" p88-89)。内容は即座に出発してナザレとフーレの間に布陣しクレベールと連絡を取ること、敵はフーレ村にいること、砲兵廠から8ポンド砲2門と曲射砲1門、4ポンド砲2門などを連れて行くこと、(アクル城内の)敵に見つからないように出発することなどだ。ボナパルト自身も半時間遅れで出発するという。
またクレベールにも命令が出されている(p89)。ミュラが本日夜明けに敵を攻撃すること、自らはボン師団の一部とともにナザレとフーレ村の間に布陣するので、可能な限り早く自分の場所を連絡することなどだ。
正午少し前にアクル正面の陣地を出発したボナパルトはその夜はサフレーに宿営した。16日の早い時間に出発したフランス軍は、オアベル=シマン山の西方を迂回するルートを取り、サムニ、ゲバトを経てフーレ村のあるエスドレロン平野を見下ろす地点まで到着した。時間は午前9時、ベルティエの記した公式戦史(p89-91)によれば、3リュー離れた場所で戦うクレベール師団の姿が見えたという。
オスマン軍の兵力は騎兵2万5000騎に達していたのに対し、クレベール師団は約2000人にとどまった。さらに戦場の向こう2リューの場所、ナブルス山地の麓にはマムルークの宿営地が見つかった。ボナパルトは部隊を3つの方陣(歩兵が2つ、騎兵が1つ)に分け、大きく迂回してオスマン軍の退路を断ってヨルダン川の向こうまで追い払う計画を立てた。
公式戦史によるとクレベールは[芽月]26日にサフレーの宿営地を発し、バザールへ行軍し、そして27日夜明け前に敵を攻撃するつもりだったが、どれほど急いでも日の出の1時間後よりも早く到着することはできず、敵に乗馬する時間を与えたという。彼は2つの歩兵方陣を組み、敵騎兵が何度か行った突撃をはねのけた。
攻撃の手順を命じたボナパルトは、各部隊が配置についたところで12ポンド砲を放ったという。この砲声によって味方の接近を知ったクレベールは防御から攻勢に転じ、銃剣でフーレ村を奪った。ボナパルトの他の歩兵部隊もオスマン軍を攻撃し、彼らを一気に壊走へと追い込んだ。彼らは夜の間にマガマ橋を渡ってヨルダン対岸へと逃げ出していった。
参謀副官ルトゥルクが率いるボナパルトの騎兵はマムルークの宿営地を奇襲し、馬匹500頭とあらゆる物資を奪い、捕虜250人を得た。「エスドレロンあるいはタボール山の戦いの結果は、フランス兵4000人による騎兵2万5000騎と歩兵1万人の撃破であり、敵の全物資と宿営地の奪取、そしてその混乱したダマスカスへの逃走であった。彼ら自身の報告によるとその損害の合計は5000人を超えた」という。
「敵がジェナン峡谷とナザレ峡谷に集まっていることを知るや否や、私は彼らとヨルダン川の間に入り込むべきだと考えました。これはあなたの指示の要点です。バザール経由の行軍はこの目的を満たすものでした。
26日、私の師団は合流し、同日午後10時、夜明けの1時間前に敵宿営地に到着しそこを奇襲できると期待しながら、我々は移動を始めました。3つの隘路と、地元の案内人が述べたよりもはるかに長い距離とが、我々の期待を裏切りました。我々は6時にならなければ到着できず、敵は当初こそ多大な混乱に陥りながらも乗馬する時間がありました。我々は最初の高地で敵を崩壊させてそこの砦を奪い、私はすぐにヴヌー大佐が指揮する100人をそこに投じました。この砦は我らの支援拠点として、またどのようなケースが生じても退却拠点として使えるようにしました。それは平野を見下ろしており、騎兵には接近不能でした。私は続いて2つの方陣で平野へ前進し、すぐに戦闘はより激しく交わされました。既に4000騎の騎兵が我々を囲み、すぐに他の3000騎が続きなお似た数の戦力がおりました。我々以外の兵であれば驚愕していたであろうこの多くの騎兵とは別に、すぐ高地からいくつかの縦隊で下る2000人以上の歩兵が見え、彼らは騎兵と混ざって我々の散兵と激しい射撃戦を行いました。
騎兵はあらゆる方角から時には部分的な、時には全面的な突撃をして、恐ろしい叫びをあげながら我々と交戦しました。兵たちの冷静さとマスケットの銃撃、及び砲撃とが毎回彼らを牽制し、来た時よりも素早く引き返すことを常に強いました。彼らはまっしぐらにやって来て、何人かの勇敢な兵は我々の戦列のほど近くで戦死した。これらの出来事全てが起きたのはまだ午前7時の時点だった。私は相次いで他の前進の動きを行い、とうとう正午にはジュノー将軍の方陣が馬匹、弾薬箱及び他の装備を囲むには小さくなりすぎたため、2つの方陣を1つにまとめました。この状態で我々は堅固にとどまり、私は彼らの突撃を受けない限り射撃を控えるよう命じました。日没を待てば彼らはあちこちの宿営地へと散らばるので、この後退的な移動を利用して何らかの試みを行い、彼らが戦いを恐れるまで夜に乗じて勝利を完全なものとするのが私の意図でした。
ですがその時、砲声が聞こえました。その口径からフランス軍のものであると判断でき、兵たちは喜びの声を上げ、私はそれを利用しました。ヴェルディエ将軍は擲弾兵4個中隊とともに極めて多数の歩兵が占拠している砦に向かいました。私は彼らを支援するため騎兵を送り出し、これらの歩兵に突撃させました。敵はあらゆる方角で逃げ出し、我々は追撃しました。壊走の中で弾薬箱と、同様にラクダの背で運ばれていた大砲1門を奪いました。敵はヨルダンへの道を取り、夜の間にゲスル=エル=マガマの橋を渡りました。以上が、あなたの存在によって勝利が加速され決定づけられた戦いです。我々は60人が負傷し2人が戦死しました。搬送の必要がある怪我人は6人だけで、残りは数日で戦列に戻れるでしょう。11時間に及ぶ射撃と砲撃によって平野で殺されたものを除いても、砦の中だけで100人近くの敵を殺しました。負傷者はかなりの数に上ったはずです。
私はあなたがマムルークの宿営地及び装備を奪ったことを師団に知らせ、それは彼らを有頂天にさせました」
加えてNotes sur les opérations du général Kleberという史料(p93-94)もあり、そこには以下のように書かれている。
「敵は我々[ボナパルトの部隊]に何の注意を払っていないようだったが、その時、右翼の方陣から聞こえた砲声がクレベール将軍に我らの存在を確信させた。敵はこの砲声に驚き退却を考えたようだった。そして何より感動的なことに、クレベール師団は自然と立ち上がり敵に真っ直ぐ向かっていった。前方に湖がありながらそこで水をくむことができなかった師団は、手の内に飛び込んできた好機を前に、終日渇きに苦しんでいたことも一部忘れてしまった。馬蹄の下に追い込まれた敵は、乗馬の速さのみに安全を求め、路上に多くの荷物を残していった。ヨルダン川へと退却した彼らは、恐怖のあまりいくつかの川の浅瀬を見落とした。報告によれば彼らの多くが溺れたのは間違いない。夜の到来によって追撃の手段が失われ、加えて兵たちは休憩を必要としていた。我々は平野の真ん中で夜の間野営した。住民が我々に敵対したと思われるいくつかの小さな村が焼かれた。この戦闘ではごく少数の血しか流されなかった」
またイスラム側の史料としてニコラ・アル=トゥルクの本の抜粋も紹介されている(p94-95)。ただしこちらの内容はほぼフランス側から見た戦闘経過しか載っておらず、オスマン軍の状況を知るうえでは全く役に立たない。他に敵が逃げるのを見たフランス軍が笑い始めたという話や、戦闘後にボナパルトとクレベールが「お互いの腕に身を投じて抱き合い、敵の敗北を喜び合った」話が載っているが、正直この戦いの実相を知るうえではあまり意味のない逸話だ。
次回は上記で紹介した史料、特にクレベールの報告をもとに、タボール山の戦いを巡る問題について話をする。
コメント
No title
祖国は危機にあり!サイト読者ですがあちらは暫く更新しない感じでしょうか?見やすくてありがたいので待ってます。
2018/02/25 URL 編集
No title
本サイトの方ですが、すみません更新サボってます。
何せ古いサイトなので見ているとデザインを変えたくなってくるのですが、そうなるとものすごく手間がかかるため気力が失せるという流れの繰り返しです。
申し訳ないのですが、あまり期待しないでお待ちいただけると助かります。
2018/02/26 URL 編集