この移動は「サン=シモン山の合図」によってクレベールに伝えられた。前日手配しておいた烽火が早速役に立っている。もちろんジュノーから直接の伝令も届いたようで、ボナパルト宛ての手紙にはジュノーの報告も同封すると記されている(残念ながらこの報告はLa Bataille du Mont Taborには採録されていない)。
クレベールは戦いが近づきつつあることを予想してか、騎兵と砲兵の増援をボナパルトに求めている。「もし私が求めた大砲2門と騎兵200騎を明日早朝に送ってくれるなら、私は敵の背後を追撃します」というのが彼の指摘だ。同時に分遣隊を出してしまうと1200人も兵が残らないとも述べており、サフェット支援のために兵力を割くのは難しいとの考えも示している。
この報告を受けたボナパルトはすぐ騎兵100騎、大砲4門と1万のカートリッジをクレベールに送った。同日、ベルティエからクレベール宛に出された命令(p82-83)では、まずミュラの動向について言及している。曰く、夜明けにミュラがヤコブ橋へと向けて出発したので、翌朝にはそこに到着するであろう、その場合に敵はミュラを攻撃するためヤコブ橋へ向かうか、ゲルス=エル=マガマにある橋を守るべくタバリエーに向かうであろう。
こうした敵の動きに合わせ、彼らがミュラに向かうなら敵を追撃してミュラを支援し、逆にタバリエーに来るのならミュラがそれを追撃するので彼と協力してオスマン軍をヨルダン川対岸へ撃退するよう、ボナパルトは要求している。一方、南方の敵に対する対応としては「敵が貴君の陣地を攻撃しようと脅かすまでに大胆さを増すなら、司令官は決定的な一撃のため自らそこに向かう」と述べている。
同日、ベルティエからミュラに対して出された命令(p83-84)には、クレベールの南方に集結している敵についての情報が掲載されている。そして、クレベールへの命令と同様に両者が連携して敵に対処するよう命じており、その中には「クレベールと対峙している敵が(中略)ヤコブ橋に向かった場合」についての言及もある。
クレベール師団のいたナザレとミュラが向かっていたヤコブ橋との距離は、現代の地図でみて60キロ以上はある。サフェットまでの距離でも約50キロはあり、少なくとも1日でカバーできる距離とは思えない。実のところ、ナザレからはアクルの方がよほど近い(40キロ弱)。そして実際、結果的にはミュラとクレベールは別々の場所で個々に戦うことになり、後者に対する支援はアクルから送り込むことになった。
かなり離れた両部隊に常に相互連携を要求していたということは、ボナパルトはシリアから来たオスマン軍による本格的な戦闘が始まるまでにもう少し時間があると考えていたのかもしれない。あるいはどちらの軍勢も単独でフランス軍と対峙するには弱いため、いずれは必ず合流すると見込んでいた可能性もある。だがその一方でミュラやクレベールに対しては敵の背後に回り込む積極策を常に推奨しており、その意味ではすぐ戦闘になっても構わないと考えていた様子もある。とりあえず思いつく手を色々と打ってみて敵の様子を窺っていたのだろうか。
ミュラの攻撃によりオスマン軍はヨルダン川の対岸まで追い払われ、フランス軍の一部は対岸でその夜を過ごしたという。ガラリヤ湖の北岸から敵を追い払ったミュラは、翌16日にはボナパルトの命令に従って南下し、その翌日にはタバリエーへと達した。前日のタボール山の戦いを受けてタバリエーにいたオスマン軍は完全にそこを撤収しており、そこには軍を2ヶ月にわたって養えるほどの物資が残されていたという。
一方、クレベールもまた南方でミュラと同様に敵の背後に回り込む作戦の準備にかかっていた。ボナパルトから夜襲を唆すような命令を受けた14日の夕、サフレーにいたクレベールはナザレのジュノーに対して自らの決断を伝えている(p87)。「貴君は敵がどこにいるかも、自分の陣地の優位も知っている。従ってもし敵がカフル=エル=セットの陣地を離れたなら(そうなるかどうかは夜に分かるが)、私は直接バザールに向かい、合流して敵が合流しているのは確実だと思われるフーレを攻撃することを貴君に伝える」と彼は述べている。
上にも述べた通り、バザールはタボール山の近く、正確にはその北東にある。まずこちらに向かったうえで、最終的にナザレ南方のフーレ(アフーレ)に向かうとなれば、それはタボール山を回り込んだ迂回ルートを取ることになる。同日夜、ボナパルトが送り出した増援と弾薬がサフレーに到着し、クレベールが攻勢に出る態勢が整った。
さらにクレベールは翌15日朝にもジュノーに手紙を出している(p87-88)。それによると彼は午前6時半にバザールへと出発し、そこにいる敵の集団を攻撃したうえでそこから「貴君が昨日、正面にあると伝えてきた敵宿営地に真っ直ぐ行進する」と書いている。ジュノーが伝えた宿営地とはフーレ村のことだろう。
そのうえでクレベールはジュノーに対し「私を見たらすぐ、貴君はそちら側の敵を攻撃し、それからナザレに少佐を残し、そこにあるあらゆる施設を完全にカバーするため必要な全ての対応を取ったうえで、私と合流するように」と命じた。この文章で問題なのは、クレベールがどこでジュノーと合流するつもりであるかが読み取れないこと。読み方によってはクレベールが迂回攻撃を仕掛ける一方でジュノーはナザレから直接フーレに向かうよう指示していると取れなくもない。この件は後でもう一度考慮する。
またクレベールは14日の真夜中にボナパルトにも自分の考えを伝えたようだ。それに対する15日午前1時付のベルティエの返事(p88)には、攻撃するあらゆる好ましい機会を利用できるよう敵から目を離さないこと、ナブルスからの増援を受け取る前に敵を叩くのが重要であることなどを伝えたうえで、敵の情報を得やすくするため「司令官は今朝、数百人の兵と数門の大砲をシャファ=アムルの山[アクルとナザレの中間地点にある]の麓にある平野まで前進させる」ことを知らせた。
実際にはこの夜あるいは15日朝に得た情報を踏まえ、ボナパルトは数百の兵どころか、自ら嚮導隊、ボン師団、騎兵とともにナザレの南方へ進出し、クレベールの攻撃を支援する決断をした。この時点ではまだミュラが向かっていたヤコブ橋の情勢もどう動くか分からなかったはずで、それでもなおクレベールの方面が重要だと判断したその状況把握能力はやはり見事と言うべきなんだろう。かくしてタボール山の戦いへと舞台は進む。以下次回。
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