銃砲か火槍か

 中国製の火器がいつ日本に伝わったかについてこれまで何度か書いているが、そのあたりについてまとめた「銃筒から仏郎機銃へ」という資料"https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD100000&bibid=19793"があったので紹介しよう。別に日本への伝来だけでなくもう少し幅広いテーマについてまとめているので、非常に参考になる。
 興味深いのは、おそらく同時代性の高い史料以外は取り上げるのを控えている部分だろう。だから日本における出来事に関しても、北条五代記"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%BA%94%E4%BB%A3%E8%A8%98"(17世紀前半成立)や甲陽軍鑑"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91"(同)、雲陽軍実記"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E5%AE%9F%E8%A8%98"(16世紀後半成立?)の記述にはそもそも触れていない。
 代わりに出てくるのは李朝実録と、日記である蔭涼軒日録"https://kotobank.jp/word/%E8%94%AD%E6%B6%BC%E8%BB%92%E6%97%A5%E9%8C%B2-33309"や碧山日録"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%A7%E5%B1%B1%E6%97%A5%E9%8C%B2"といったもの。確かに後の時代に成立したものに比べて信頼度が高いのは確かだし、それを基本に考えるのもスタンスとしては正しい。
 例えば琉球については、これまで紹介した1453年の記録の他に、1462年の李朝実録には1456年のこととして琉球の「火筒其大小及體制一如本國之制」"http://sillok.history.go.kr/id/wga_10802016_002"という記述がある。15世紀半ばには琉球で使われていた火筒(銃)が李氏朝鮮と同じものであったことが分かり、少なくとも琉球にはほぼ最新式の火器が伝わっていたのが確認できる(p9)。
 対馬については以前紹介した1418年の記録に続き、1426年に朝鮮東岸での硝石製造を中止した際の記述に「對馬等島將火藥秘術教習倭人」"http://sillok.history.go.kr/id/wda_10812013_003"との文があり、逃げ出した奴僕が情報を伝える懸念があったことを指摘している。
 加えて1445年の記述には「昔有一人被虜於倭問煮焔硝之術極慘酷」や「嘗虜唐人始解火砲之術曩李藝之往日本以火砲迎之」といった文言もある"http://sillok.history.go.kr/id/wda_12705009_003"。この記述を信じるなら既にこの時点で日本は朝鮮の使者を「火砲」で出迎えていたことになる。ただ「然火氣不猛」とあるので、火薬としては質の悪いものだったと思われる。この出迎えは対馬で行われた(p10)そうだ。

 こうした流れを踏まえたうえで、「銃筒から仏郎機銃へ」では蔭涼軒日録("https://books.google.co.jp/books?id=aR0dyKt0QfIC" p670)と碧山日録("http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920418/71" 175/384)の文章について検討を加える。まず先行研究が紹介されているのだが、ある説によれば「火炎放射器」や「中国で創製された原始的な手銃や、同様の大型火器類が、日本に伝えられていた」ことになるし、別の説では碧山日録に出てくる「火槍」は「文章のあや」にすぎず、蔭涼軒日録の「鉄放」も爆竹の類となる(p12)。
 実際問題、「鉄放」や「火槍」という言葉だけでどんな兵器だったのか判断するのは難しい。同時代の中国や朝鮮で使用されていた用語は「火銃」や「火筒」「碗口」など。火槍という言葉は後に銃を意味するようになるがこの時代にはまだ火薬のみを装填して火花を飛ばす兵器の呼び方であった可能性があるし、てつはうと言えば最初は震天雷を意味するものだった。15世紀半ば過ぎの文献に残っている兵器がどんなものであるかを知るのは、そう容易ではない。
 だが「銃筒から仏郎機銃へ」では火槍が単なる「文章のあや」だとはみなしていない。火槍の前にある「飛砲」という言葉と同じものと思われる「発石木」について、碧山日録の筆者が「予曰、砲也、唐李密以機発石、為攻城具、号将軍砲」(152/384)とその存在について詳しく述べているからだ。おまけにこの発石木は「和州之匠」が製造したそうで、当時の日本に中国製の武器についての知識がきちんと伝わっていたことが分かる。飛砲が文章のあやでなければ火槍もそうだろう、という理屈だ(p12)。
 さらに火槍系の武器が当時の日本に存在していた可能性を示す史料として持ち出されるのが、1445年または46年成立の壒嚢鈔"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%84%E5%9A%A2%E9%88%94"である。同書"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2597262"の中には「てつはうと云う字は何ぞ鉄炮と書く也紙にて作るを紙炮と云也」(25/72)と書かれている。紙砲とは紙で作られた火槍であり、鉄砲とは金属製の火槍である、というのが筆者の見方だ(p12-13)。
 こちら"http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol16-2_all.pdf"にもあるように、火槍は最初は竹で、後には紙筒で作られた(p62)。金史にも火槍の製造法として「黄紙十六重為筒」"https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%87%91%E5%8F%B2/%E5%8D%B7116"とある。さらに最終的にこの管型兵器は金属製の筒へと発展していったわけで、壒嚢鈔に出てくる鉄砲と紙砲はまさにこの火槍を示しているという理屈だ。
 さらにこの資料では鉄放が琉球で使われた「棒火矢(ヒヤー)」に類似した火器であるとの説も紹介(p13-14)している。ヒヤーとしてよく紹介されているのは三眼銃"http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2008/10/post-586f.html"だが、実際に3つの筒で構成されていたかどうかは不明。いずれにせよ、ここでは結論として15世紀半ばの「火槍」「鉄放」を、火銃でも爆竹でもなく、筒に火薬を詰めた昔ながらのfire lance"https://en.wikipedia.org/wiki/Fire_lance"だとしている。

 壒嚢鈔の記述から推測するところなど、とても参考になる部分が多い。ただ一点気になるのは、蔭凉軒日録にある「鉄放一両声人皆聴而驚顛也」という表現だ。鉄砲を二発発射したその「声」が人々を驚かせたとあるわけで、普通に考えれば鉄砲が発した破裂音に度肝を抜かれたという意味だろう。だが単に火薬を詰めただけのfire lanceが、果たして破裂音を出すだろうか。
 こちらの動画"https://www.youtube.com/watch?v=JC8A8KwF4Zo"の後半にはfire lanceを模した火花を飛ばす兵器の再現動画がある。BGMがやかましいが、聞こえてくる音から判断する限り破裂音は聞こえず、パチパチという火花のはぜる音しかしない。人々を驚顛させる音と考えるにはいささか迫力不足ではなかろうか。
 それに対し、こちらの動画"https://www.youtube.com/watch?v=s_cKImrPsk8"の終盤に出てくるfire lanceは明らかに破裂音を出している。特徴は火薬だけでなく一握りの石ころを入れている点だ。つまりEruptorだと破裂音が出てくることを意味する。同じ現象はこちらの動画"https://www.youtube.com/watch?v=VebnWOjpHis"でも確認できる。石ころを詰めた竹製の火槍が破裂音とともに小石を撃ち出している様子が分かる。
 現代における実験だけでなく、過去の記録もこれと歩調を合わせている。12世紀に初めて火槍を記述した守城録"http://ctext.org/wiki.pl?if=en&chapter=733952"を見ても、その音についての言及はない。だが13世紀半ばの突火槍について記した宋史"https://archive.org/details/06060979.cn"を読むと、このEruptorは「如炮聲遠聞百五十餘歩」(37/171)と、かなり離れた場所からも音が聞こえたようだ。
 ただ同様にEruptorだと思われる飛火槍"https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%87%91%E5%8F%B2/%E5%8D%B7113"については音に関する記述はない。とはいえ他にもfire lanceを再現した動画"https://www.youtube.com/watch?v=XMzZ3CPgMrg"でやはり破裂音がすることまで踏まえるなら、蔭凉軒日録の鉄放が少なくともEruptorであったことの傍証にはなるだろう。
 実際には上にも述べた通り、この時代、琉球は朝鮮と同じ武装を持っていた。だとするなら「鉄放」の方は素直に火銃だったと考えてもいいと思う。そして「銃筒から仏郎機銃へ」が述べているように細川氏が琉球と優先的な貿易取引をしていた(p14)なら、碧山日録の「火槍」もまた琉球で見られたものと同じ中国風の銃砲であった可能性もあろう。慎重に考えるならEruptor、そうではなくきちんとした銃砲だった可能性もある、というのが実態だったのではなかろうか。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック