だがそんな雑誌であっても、先入観と偏見に惑わされた記事が載ることもある。その一例がこの記事だと言える。そこでは事実よりも別の何かが優先され、結果としてむしろ事実から目を逸らすのに役立ってしまっている。第一次大戦前の欧州列強が陥っていた「思い込み」が、はしなくも露呈してしまったのがこの記事かもしれない。
記事中ではまずPollio将軍が唱えた説と、より伝統的な説とがそれぞれ紹介される。HoussayeやLettow-Vorbeckらが唱えた後者の「反対命令」説は、リニーの戦場へ向かっていたデルロン軍団に対してネイ元帥が戻ってくるよう命令を出したというもので、記事によれば「最も古く最も一般に広まっている」(p460)説だ。
見れば分かる通り、ネイの反対命令についての議論にもかかわらず当事者の名前がほとんどないうえに、どれもこれも同時代の記録ではなく回想録など後の時代の文章ばかりである。要するにデルロン自身の書いた文章を除けば二次史料ばかりに基づく議論であり、そのデルロン自身の手紙も戦役から14年も後になって書かれたものだ。フランスでこれが伝統ある説なのは確かだろうが、より信頼度の高い古い一次史料が出てくれば容易にひっくり返される可能性のある説だとも言える。
そしてそういう史料が出てきたと指摘するのがPollioの唱える説である。当時まだ見つかったばかりであったその史料とは、1815年6月16日の夜10時にフラーヌで書かれたスールト宛てのネイの報告書だ(Fausse Manoeuvre, p461-462)。肝になる部分はこちら"
https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54687612.html"でも紹介済みで、他に「第1軍団を除き、誰もが義務を果たしました」という文言もある。この新しく発見された史料に基づいてPollioは、自分でUターン命令を出していたならしなかったであろうデルロンへの批判をネイが行っていると指摘する。
「(前略)フラーヌへ後退せよとの命令がネイ元帥によって与えられたようには見えない。そうでなければ彼に『第1軍団を除き、誰もが義務を果たしました』などと書く権利はなかっただろう。ましてまだ会戦が終わっていなかった時に、リニーで起きたことについて午後10時時点のネイが知り得なかったことまで踏まえればなおさらだ」
p462
以上のように2つの説を紹介したうえで、Revue d'Historeの記事は反対命令説がデルロンの手紙を除き「回想録にのみ価値を置きオリジナルで信頼できる文章に価値を置いていない」と指摘。そのデルロンの手紙についても「問題に利害を持ちすぎている筆者が記したもの」であるうえに、既にネイもナポレオンも反論できない1829年に書かれたものであると述べている。一方でPollioの説を支えるネイの報告書とフーシェへの手紙については「これら2つの信頼できる記録の一致は批評家に確かな印象を残すだろう」と書いている(p463-464)。
だがここで筆者は派手に手の平を返す。こうした特徴はあくまで「一見して」そう見えるだけだといきなり言い出し、そこからはPollio説の否定と従来からある「反対命令」説の肯定に舵を切るのだ。そしてその過程で一次史料の重要性を頭から否定するようなことまで言ってしまう。
まず彼はネイの報告や手紙のどちらも、デルロンが自ら引き返したと明確に書いていないと指摘する。これはその通りで、というかフーシェへの手紙にはむしろ皇帝の命令で引き返したように書かれているくらいだ。次にこれらの文章はやはり「問題に利害を持っているネイ元帥の手」で書かれたものだと記している。これまたフーシェへの手紙には当てはまる議論だろう。だがデルロンの彷徨がどんな意味を持つかはっきりしていなかった16日付の報告書に対してこの指摘は意味がない。
そしてより問題含みな指摘がその後に続く。曰く「ネイは16日午後10時の時点で、デルロンがサン=タマンに向かったのはナポレオンの命令にただ従っただけだと知っていたのではなかったのか?」(p464)。ネイは失敗の原因をデルロンの誤解にあるとしているが、ナポレオンの命令で動いていたデルロンにどんな「誤解」があったのか、と反論しているわけだ。
この議論は、デルロンの方向転換がナポレオンの命令によるものであるという認識を最大の前提としている。そしてそれをネイも知っていたはずであり、であればそもそもデルロンの行動のうちサン=タマンへ向かったことは批判の対象にならない。なのにその行動を、その後のUターンも含めて批判するのはおかしくないか、という理屈である。もしde Witが唱えているようにナポレオン自身が方向転換命令を出していないのであれば、ネイによるデルロン批判も筋が通り、この手紙におかしな部分はなくなる。でも前提が違えばこの文章はおかしいものに見えてしまうのだ。
そうなると、今度は「なぜおかしな文章を書いたのか」への追及が始まる。結果、筆者はほとんど下種の勘繰りと言うしかないようなことを言い出す。筆者によればこの時代は「政治的情熱が大半の人間に多大な影響を及ぼし」ており、将来への懸念や個人の利害が「品性を下げ、良心をくらませ、優れた気質を持った人間の徳を貶めるのに貢献した」(p465)。だからネイの手紙や彼の副官だったエイメの回想録に、デルロンの1829年の手紙やボーデュの記録よりも高い価値を置く必要はない、という結論になる。
要するにこの筆者は、会ったこともない人間の「品性」やら「良心」を自ら忖度し、それに基づいて史料の価値を決めつけ、一次史料を否定しているわけだ。直前に回想録より「オリジナルで信頼できる史料」の持つ価値の重要性を自ら指摘しているだけに、この結論は驚きというほかない。あの議論からどうしてこんな結論が出てくるのかとあきれてしまうばかりだ。
かくして6月16日付報告書という一次史料を否定した筆者は、ではなぜ皇帝の命令でリニーに来たデルロンが引き返したのかについて、史料に基づくのではなく推測を重ねて結論を出す。「彼がこの移動を実行したのは明確な命令のためだと認めるしか」なく、そして「この命令を与えることができるのはネイ元帥だけだ」(p466)という理屈で、筆者は伝統的な「反対命令説」の方を支持するのだ。長くなったので以下次回。
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