それに対し、完全にオーパーツと化しているのが、エボシ御前が作らせていた新式の石火矢"
https://pbs.twimg.com/media/Ct2M9cyVYAAieRb.jpg"である。その機能はどう見ても15世紀日本にはあり得ないようなものが満載されている。一つはもちろんブリーチローディング、即ち後装機構だ。明の火銃は基本的に前装式だったし、作品に出てくる火銃もそうなっている(槊杖を使った玉込めのシーンもある)。ところがその新型石火矢は、後部にある隙間に何やら箱状のものをはめ込み、そのまま引き金を引いて弾丸を発射しているのだ。後装式の銃だと考えるしかないだろう。
要するにこの時代、後装式の火器が日本に出てくる可能性はほぼ皆無なのである。どうしても出したければ、この映画の時代は佛郎機が中国に伝わった1520年代から火縄銃が日本に到来する1540年代までの間を舞台としていると主張する必要があろう。それでもなお据え付け式の機構を手持ち式に適用するという困難を乗り越える必要はあるが、少なくともアイデアそのものから生み出す必要はなくなる。
なぜ後装式は中国でなく西欧で生まれたのか。これは完全に私個人の妄想に過ぎないが、中国が銃砲を鋳造していたのに対し、西欧では鍛鉄を使っていたからではなかろうか。鋳造なら最初から尾部を塞いだ状態で銃砲が製造されるが、鍛鉄ならまず筒を製造し、その後で尾部を塞ぐ作業を行う。塞ぐ代わりにここに火薬と弾丸を詰め込んだカートリッジを入れれば銃砲になる、と思いつき易いのは前者より後者の方だろう。
後装式よりさらに困難なのが引き金機構だ。これまた以前にも書いた通り、欧州でごく簡単なサーペンタイン・ロックが生まれたのは遅くとも1411年に遡るのだが、シア式マッチロックの誕生となると15世紀末まで時代を下る。一方、この作品に出てくる新兵器は、どう見てもサーペンタインロックより複雑、かつシア式ではなくスナップ式マッチロックのような挙動を見せている。現実には16世紀にようやく欧州で生まれた機構だ。
しかも点火法が明白でない。何となく火口(ほくち)を使ったティンダーロックのように見えるが、だとしたらその火口にどうやって点火していたのかが分からない。こちら"
http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/m_yomitoku.html"などはさらに極論を持ち出し、「歯輪式」つまりホイールロックを使ったと推測している。ホイールロックが西欧で誕生したのは1500年前後。作品の舞台が15世紀なら間違いなくオーパーツだ。というか映像を見てもどこにもホイールらしきものが見当たらない。この文章を書いた人はホイールロックを見たことがないに違いない。
ただしこれに対しては、ホイールロックが中国でもっと早くから発明されていたという主張もある。Needhamは火攻備要"
http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=84459"に載っている炸砲(54-55/66)の説明文に「鋼輪」が載っていることを指摘。さらに17世紀の史料に載っている「鋼輪」のメカニズムがホイールロックと同じ機構であること示して中国では14世紀にホイールロックが生まれていた可能性を指摘している(Needham, p196-201)。
たとえNeedham説を受け入れたとしても、地雷用の発火装置だったホイールロックを手持ち式の銃に組み込むのは容易ではない。ホイールの小型化、それを回転させる仕組みも開発など、問題は山積みである。とりあえずフィクションなのだから「天才が思いついた」の一言で済ませてしまうのが一番簡単だが、この新兵器を「現実性のある仮説」と見なすのはさすがに無理がありすぎるんじゃなかろうか。やはりこの新型石火矢はオーパーツだと思う。
以上でもののけ姫に出てくる火薬兵器についての説明は終わり。基本的に室町時代中期(15世紀)ならあり得る兵器が大半で、1つだけ「ロマン兵器」が混じっていると考えればいいだろう。フィクションとしてはかなり真っ当に見える。
最後に適当な思いつき話を。この作品には人間たちの他に、擬人化された自然と、その双方を包摂する世界そのものの象徴が出てくる。後者に当たるのは「シシ神」だろう。正邪・善悪・敵味方といった人間の理屈とは関係ない論理で生死にかかわる強大な力を振るうその様は、フレイザーが金枝篇で描いた「女神」のようなものと言える。巨大なパワーを持っているが、それをどう使うかは人間には理解できない。作中で極めていい加減に生き物を殺したり生き返らせたりしている様子を見ても、そういった印象が強い。
それに比べるとナゴの守やモロの君、乙事主などは、あたかも自然を代表しているかのように見せているが、実際は単に擬人化を通じて分かりやすく描き出された「人間世界の写し鏡としての『自然』」に過ぎない。いわば自然全体のほんの一部を、人間の理屈で解釈して描いたものだ。そもそもなぜこいつらは人語を話すのか。言葉とは無縁の理屈で動いてもよさそうな存在なのに、まるで人間のように振る舞うのはなぜか。それは人間の視界に入る自然の「一面」しか代表していないからだろう。おそらく彼らは力を持つバケモノなどではなく、人の恐怖心が生み出した幽霊=枯れ尾花のような存在だと思う。
さらに人そのものの世界も多層的に描かれている。こちらも大きく2つのカテゴリーに分かれており、一方は「ゼロサム競争の世界」、もう一方は「プラスサムを目指す世界」だ。たたら場は後者であり、そこの住人たちは森を切り開いて自分たちの収益を得ようとしている。既存の人間社会の利益を取り合うのではなく、その外に利益を奪いに行くわけで、これは結果として人間社会全体の利益を増やすことにつながる。プラスサムというのはそういう意味だ。
これに対し、天朝やジコ坊などはゼロサムの世界で既得権を握っている連中であり、アサノ公方やサムライたちはゼロサム世界で他者の利益を奪うことで自分たちの利益を増やそうとする成り上がり連中だ。彼らは社会全体がゼロサムであることまで変えようとはしていない。あくまで限られたパイのうち自分たちの取り分を守るあるいは増やすことに力を入れている。
たたら場はゼロサムで必ず生まれる敗者を救おうとする取り組みだと考えられる。でもプラスサムを目指せば人間以外がマイナスサムに追い込まれるわけで、そこから生じる反作用を擬人化して描いたのがモロや乙事主たちだろう。だからと言ってそちらを守ろうとすれば、ゼロサム社会における敗者を救うことができなくなる。自然保護などを唱える人々が向き合わねばならないその矛盾、イノシシやオオカミを助けるため人の中の弱者を見捨てていいのかという問題を描いたのがこの作品、なのかもしれない。
でもそう考えると、主人公とヒロインは別にいなくても物語の構図は成立しそうだ。彼らはあくまで狂言回しであり、話にきれいなオチをつけるために物語の構造の外から召喚された存在と見るべきかもしれない。
コメント