承前。湖で溺死したロシア兵は本当にいなかったのか。もしかしたらいたかのように見える地元史料もある。それが以下のものだ。
「上記の集落(ザッチャンなど)は現在までに馬匹133頭を引き上げた(中略)また27頭がなお湖中にいるのが見つかったがそこに接近する手段はなく、氷は割れており、コンパレントはそこにたどり着くならヤード尺の深さの泥に沈んでしまうと保証した。従って湖がもっと強く凍り付き人を支えられるようになるのを待たなければならない。湖では2人のロシア兵しか見つからなかった」
だがこの「2人」は溺死でなかった可能性が高い。というのも別の地元史料に以下のような記述が存在するからである。
「この領地に属するザッチャン湖には1805年、アウステルリッツの戦い後、氷の上で傷のため死んだ猟兵と、堤防の底に残っていたコサックが見つかった。どちらも湖の前に埋葬された。領地の主人が所属している調査委員会の開催時に水が抜かれた時、上記の湖からはロシア兵もオーストリア兵も敵[フランス]の兵も見つからなかった。
湖には戦いの後、28~30門のぬかるみにはまった大砲と、それにつながれた130頭の馬匹、及び多くの砲弾があった。
大砲につながれた馬匹は敵に殺され、彼らは大砲を回収し、自らの監視の下に周辺の臣民を使ってブリュンへそれを運んだ」
p66-67
見つかった2人の死体はあくまで「氷の上」や「堤防の底」にあったものであり、水を抜いた湖からはどの国籍の兵士も見つからなかったとある。テルニッツ教区に残された史料も、溺死者がいなかったと指摘している。
「ゾコルニッツとテルニッツでは戦いは朝6時に始まり午後4時にようやく終わった。ロシア軍はプラッツェン高地とアウイェツト高地を放棄した後に敵に挟まれ、ザッチャンの凍った湖を経て逃げることを余儀なくされ、そこで多くの大砲と馬匹を失ったという。彼らはこのこの湖の葦の中に、つまり端に250頭の馬匹と多くの車両を放棄した。兵に関しては砲弾で殺された3人のロシア兵のみが見つかったが、溺死したものはいなかった。湖は凍っており、車両は葦の中で壊れて残っていたが、フランス側の記録が逆の話を報告しているにもかかわらず、1人の兵も溺れなかった」
p67
湖の水を抜く仕事を請け負ったスーシェもこの状況には困惑したようだ。彼はナポレオンの機嫌を損ねまいとしたのか、「地元民から聞いた話」を混ぜ込むことで溺死者が大勢いたように見せかける手段を取った。
「陛下の命令に従い、私はアウイェツト上にある湖の水を抜きました。この作業には5日かかり、もし石でできているうえに20ピエ以上の高さがある堤防を切らなければならなかったとしたら、もっと長い時間を要したでしょう。水を抜いた最初の日々以降、ロシアの13ポンド砲12門を回収することができ、その数は湖のこの地点でやがて36門まで増えました。見つけることができたのは馬匹138頭と死体3つだけでした。住民に聞いたところ、ロシア軍猟兵4個中隊が水中で死んだと聞いたのですが、彼らは初期の内に回収されたと思われます」
p67-68
結局のところ溺死者はゼロだった。最大限好意的に読み解いたとしても、2~3人が上限だろう。この点は連合軍側関係者がこれまで述べてきたことと平仄があっている。例えばSchoenhals曰く。
「湖で数多のロシア兵が溺死した件についてだが、この出来事はフランスの公報が示した寓話の領域から来たものだと言える。それはパリジャンの目に、皇帝の恐るべき尊厳を大きく見せるのが目的である」
p68
匿名だが「その指揮権とロシア軍内で占めていた地位から極めて正確な詳細を与えらえる」ロシア軍のある士官曰く。
「間違いなく全部隊が湖で溺れ姿を消したのを見たと敢えて断言するフランス人はいない。(中略)ロシア兵は溺死していないしその機会すらなかったことは否定できない事実だ」
p68
さらに別のロシア側の情報も、以下のように述べている。
「全縦隊が湖に飲み込まれたという断定は馬鹿げている。こうした方法で死ぬのは個人だけである」
p69
しかし、アウステルリッツについてはもう1つ、溺死説が登場する湖がある。ザッチャン湖の南西にあるメーニッツ湖だ。マテュー・デュマに宛てた匿名の手紙に、以下のような主張がある。
「ロシア兵は(中略)フリアンとヴァンダンムの兵に挟まれ、山上から(ザッチャン)湖の氷上へと大急ぎで逃げ出した。何人かはかろうじてアウステルリッツからゲーディンクへの街道にたどり着いたが、大半は溺死した。メーニッツへと迂回した者たちは、他の者が氷上を渡っているのを見て彼らをまねようとした。加えてメーニッツを奪った我らの歩兵にも圧迫された彼らは、誰一人として逃げられず、全員が(メーニッツ)湖の真ん中で溺死した」
p69
スールトも12月16日の報告で似たようなことを述べている。
「あらゆる方向から追撃され、ザッチャンの堤防を通り抜けた騎兵に見捨てられたロシア歩兵は、メーニッツ湖の上を通り抜けようとしたが、同じ失敗をした第1縦隊と同じ運命を味わい、氷が割れて兵たちは飲み込まれた。逃げて渡り切った少数は、夜の闇を利用して騎兵と合流し姿をくらました」
p69-70
だがそれ以外の関係者、ヴァンダンムやシュトゥッターハイム、ダニレフスキーの証言にはそうした内容が存在しない。そして地元史料は以下のように述べている。
「多くのロシア兵と大砲の重みで氷が割れたというのは完全な間違いだ、なぜなら氷は誰かがその上を逃げるにはあまりに弱すぎたから。会戦の3日後、ゼーロヴィッツ領書記であるハイスラーが何人かの者とともに、そこにいるであろう死者を弔うためメーニッツに送られた。彼自身の報告によると、彼はメーニッツ領で埋葬が必要な死者を5人しか見つけなかった。テルニッツとゾコルニッツには大勢の死者がいたが、それはメーニッツ領から離れていた。(中略)村々は完全に放棄され、宿屋の主人しか残っておらず、ハイスラーは、部隊からはぐれた73人のロシア兵が湖の端にある葦の中に隠れていたとこの人物から知らされた。主人の息子が近道をして彼らを同国人のところまで連れて行った。氷が割れた痕跡はどこにも見つからず、湖の水を空にした時に、目撃者である数千の目の前に真実が明白に現れた。2万人のロシア兵どころか、湖に沈んでいる1人の兵も1頭の馬も見つからなかった。車両の不明な残骸や1個の車輪すら発見できず、フランス公報の記録が完全な想像の産物であることが証明された」
p70-71
やはり溺死者はいなかったと考える方が安全だろう。湿地に足を取られた兵は大勢いたようだが、公報に描かれたように溺れる兵士がいたと考えるのは難しい。あくまで公報が作り上げた「伝説」に過ぎないと理解しておくべきだ。
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