交易条件

 以前、こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56064851.html"で日本の足元の状況について、永年サイクルのどの局面に入っているかを調べてみた。実質賃金に底打ちの兆しが見えているとしたら、これは危機局面入りを示している可能性がある("http://press.princeton.edu/chapters/s8904.pdf" p33)というのが結論だったが、さて足元の実質賃金を見ると動向は微妙だ。
 2016年の実質賃金指数"http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/monthly/28/28r/28r.html"は、現金給与総額で前年比+0.7ポイント、「きまって支給する給与」でも+0.3ポイントと僅かながら上向いた。前者は5年ぶり、後者は6年ぶりの上昇である。しかし今年に入ってからの状況"http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/30-1a.html"はあまりよろしくない。確報値が出ている7月までの数値で現金給与総額は3ヶ月が横ばい、残り4ヶ月はマイナスであり、きまって支給する給与になると5ヶ月においてマイナスを記録している。
 もちろん働き方改革で労働時間が減っている影響は否めないだろう。だが同様に労働時間が減っていた16年の1~7月に実質賃金指数が現金給与総額で6ヶ月、きまって支給する給与でも6ヶ月プラスを計上していたのと比べれば、減速感があるのは確かだ。ほんの半年程度の動向をあまり気にし過ぎる必要はないだろうが、まだ「危機局面」入りしたかどうかの判断は下しづらいことは確かだ。

 それにしても有効求人倍率がバブル超えするほどの人手不足"https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS30H26_Q7A530C1MM0000/"にもかかわらず、どうして実質賃金は底辺を這っているのだろうか。インフレのせいでないことは明白なので、つまりこれは企業側が名目賃金を一向に上げようとしないことを示している。この状況ではそりゃ物価を上げたくてもなかなか上がらないだろう。何しろ消費需要が伸びない。
 実質賃金低迷の背景には何があるのか。例えばこちら"http://www.camri.or.jp/files/libs/201/201703241923219434.pdf"では生産性の低下を「主犯」としている。こちら"http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/15/dl/15-1-2_01.pdf"は「人件費への分配抑制、交易条件悪化、非正規雇用の増加、労使の交渉力の変化」といった要因を紹介している。OECDの分析では、最近20年で労働分配率が大きく低下したと見ている"http://www.oecd.emb-japan.go.jp/suggestion/pdf/Country_notes_jpn_final.pdf"。
 他の先進国との比較で、例えばこちら"http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je14/pdf/p02022_3.pdf"は労働分配率の低下と交易条件の悪化を実質賃金伸び悩みの理由と見ている。元々こちら"https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2016/data/ron160328a.pdf"でも指摘されている通り、労働生産性の伸び鈍化は日本だけでなく先進国共通の課題。水準そのものを上げる余地はある"http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/kanmin_taiwa/dai3/siryou11.pdf"かもしれないが、高い生産性の伸びを維持することは、経済が発展すると困難になるのだろう。
 となると、実質賃金を決める要素のうち問題になるのはやはり労働分配率と交易条件だ。このうちどちらの影響が大きいかと言えば、21世紀に入って以降では絶対的に交易条件の方がダメージが大きい"http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/fukao/09.html"。もちろん労働分配率が足元で低下している"https://www.nikkei.com/article/DGXKASFS02H5D_S6A900C1EE8000/"のも確かだが、長期的に見て極端に低いわけではない。
 Turchinの理論"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56116137.html"が正しいなら労働分配率は労働需給プラス文化的要因で決まる。労働需給にはGDPと労働力人口、労働生産性がかかわるが、このうち生産性の伸びが鈍っているのは指摘済み。労働力人口が減っていることを踏まえるなら、GDPが極端に減らない限り労働分配率が一段と下押しする可能性は低いことになる。となるとやはり実質賃金を抑える最大の要因は交易条件、ということになる。
 実質賃金を改善したければ原材料の調達において交渉力を増すことが必要だし、生産の海外移転を抑制しなければならないという指摘がある。円安政策が本当に望ましいのかという問題意識も必要だろう。日本はもはや貿易立国ではなく、むしろ金融資産を活用して生きていくことを考えなければならない時代になっているのだとしたら、円安が善という単純思考も見直すべきかもしれない。
 労働生産性が上がるのに実質賃金が上がらないという状況は日本だけでなく、例えば米国でも見られる("https://commons.wikimedia.org/wiki/File:US_productivity_and_real_wages.jpg"、最近の米国の動向はこちら"http://www.payscale.com/payscale-index/real-wage-index")。その米国で労働者の不満からトランプ政権が生まれたことを考えるなら、日本でも足元はやはり危機局面へ向けたマグマがたまっている状態と考えるべきかもしれない。

 ついでに、以前書いたこちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56433149.html"の話に関連して、中国のマルサスと呼ばれた人物"http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/1087/1/66-3-4kikuchi.pdf"に言及しておこう。18世紀後半から19世紀初頭に活躍した清の官僚である洪亮吉"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E4%BA%AE%E5%90%89"は、マルサスのように統計データを集めて論を立てたわけではないが、彼と同じ問題意識でいくつかの著作を残した。
 彼の生きた時代は清が正確な人口把握を始めた後であり、かつ急速な人口増が続いていた"http://heartland.geocities.jp/zae06141/china_population2.html"。1700年頃には1億4000万人弱だった人口は、100年後の1800年頃(彼の晩年)には既に3億人を超えてなお増加中。同じ頃に生きていたマルサスもまた欧州で人口増を経験しており"http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9010.html"、似た状況に置かれた人間は同じようなことを考えるという一例だろう。
 もちろん彼らの懸念は産業革命を機とした技術革新によって、特にエネルギーを大量投入することで単位面積当たりの作物収穫量を増やすという技術の発達(いわゆる緑の革命)によって、当面は杞憂に終わった。だが彼らの生きた時代が農業社会としては異例ともいえる人口爆発に見舞われていたのもおそらく事実。中国でも欧州でも、その人口水準は過去にないレベルまで膨れ上がっていた。結果として一方は歴史に名を残し、他方はずっと後の時代になってやっと認識されるようになったが、背景にあった問題意識は同じだろう。
 もう一つ興味深いのは、この文章"http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/1087/1/66-3-4kikuchi.pdf"に出てくる、中国の王朝盛衰と人口動態に関する1989年の研究。成長期には人口が増えるが王朝の中期には人口増が頂点に達し、零細化が進む。末期には土地兼併、つまり大土地所有と貧富の格差が開き、それが混乱をもたらす(p246-247)。ここでは人口増減はあくまで王朝興亡の「加速器」であってそこに原因があるとはしていないし、またエリートと大衆という分け方もしていないが、その当時において既にStructural-Demographic Theoryと似た発想があったことが窺える。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック