英雄になり損ねた男 その2

 Alexander Mikhailovsky-Danilevskyの"Russo-Swedish War of 1808-1809, Volume I"を読了。ロシアとオスマン帝国の戦争に続き、これまたマニアックなテーマを描いた本である。もっとも1808-09年のロシア・スウェーデン戦争はインターネットでもこちら"http://www.multi.fi/~goranfri/"のサイトなどで紹介されているので、マニアックなテーマの割には知られているかもしれない(知られていない可能性の方が高いが)。
 Mikhailovsky-Danilevskyによれば開戦の理由はフランスと同盟を結んだロシアが自分たちの側にスウェーデンを引き込もうとしたのに対し、反革命、反ナポレオンに凝り固まったスウェーデン王グスタフ4世がとことん戦おうとしたことにあるという。1808年の時点でロシア、デンマーク、そしてバルト海沿岸まで進出していたフランスが同盟関係にあったのに対してスウェーデンの味方は英国のみ。それでもなお反革命十字軍を続けようとしたのだからグスタフ4世も信念の人というか頑固というか。なお、この時期にデンマークと協力してスウェーデンに圧力をかけていたフランス軍部隊の指揮官は皮肉にもベルナドットだったという。
 この本がカバーしているのは1808年の秋まで。戦争の半分の期間、主にフィンランドを舞台として戦闘が行われた時期の経緯が記されている。まず読んで気づくのは、この戦争が水陸両面での連携を必要としたものであったこと。ロシア軍はまず陸軍を使ってフィンランド南部を占領し、続いてそこを守るためガレー船を中心とした船団を展開している。スウェーデンも海軍(英国の協力付き)を主に活用し、フィンランド南岸への逆襲上陸作戦を展開している。1808年時点の海戦を見ると、攻勢に出るスウェーデンをロシアがよく凌いでいたという印象である。
 もう一つ、北欧ならではと言えるのが冬場の常軌を逸した寒さ。なにしろマイナス35度という、ナポレオンのロシア遠征で最も寒かった時期と同水準の低温下で両軍とも活発に動き回っていたのだから凄い。こんなの相手に冬に戦う羽目に陥った大陸軍が完敗したのも仕方ないと思えるほど。寒すぎてフィンランドに数多くある湖や川は軒並み凍りつき、それどころか海まで凍りついて島にある要塞を氷を渡って攻撃することができたほど。フィンランド湾に面したスヴェアボルク要塞は、この冬場の攻撃であっさり陥落している。

 さて、スウェーデンとの戦争といえば、以前このblogでも紹介した「英雄になり損ねた男」カメンスキーである。彼の活躍を知る前に、まず開戦以降の大雑把な経緯を説明しておこう。2月に攻撃を開始したロシア軍はフィンランド南部をあっさり占領したが、それは兵力の集結を優先したスウェーデンのクリングスポルが戦闘を避けて後退を続けたため。4月、ロシア軍が前進に伴って部隊を分散させたタイミングでスウェーデン軍は反撃に出る。
 当時、ロシア軍はスウェーデン軍前面にトゥチコフの部隊が、南西部の沿岸に(上陸作戦に備えて展開している)バグラチオンの部隊が、抵抗を続けていたスヴェアボルク付近にカメンスキーの部隊がいた。全軍の指揮官であるブクスヘヴデンはバグラチオンと伴に行動していたのだが、各部隊はいずれも互いに支援できないほど遠くに離れており、スウェーデン軍の反撃に機動的に対処できなくなっていたのだ。敗北したトゥチコフはいったんクビになり、ラエフスキーが後を継ぐものの、それでもスウェーデン軍の進軍を遮ることができずに後退を続ける。
 ブクスヘヴデンは本国へ増援を要求し、バルクライ=ド=トリーの部隊がやって来ることになった。ブクスヘヴデンは彼の部隊とラエフスキーの部隊を東西に置き、スウェーデン軍を両側から牽制する(後の)トラッヒェンベルクプランみたいな作戦を遂行しようとしたが、これは上手くいかなかった。バルクライ=ド=トリーの部隊はザンデルス率いる少数のスウェーデン軍に翻弄され、ラエフスキーの増援に到達することができなかったのである。加えてフィンランド人による戦線背後でのゲリラ戦も増え、連絡線を遮断されそうになったラエフスキーはさらなる退却を強いられる。
 7月、この状況下でラエフスキーの後任としてやって来たのがカメンスキーだった。彼はスウェーデン軍の動きの鈍さを生かして部隊を再編し、8月から反撃を始める。当初はアドラークロイツ(スウェーデン側随一の将軍)の反撃などでもたついていたロシア軍だが、やがてカルストゥラの戦いで前衛部隊がスウェーデン軍を撃ち破ったのを機に一気に進軍を始める。9月にはスウェーデン軍が陣地を築いていたサルミで2日間に渡る激しい戦闘を行って勝利し、さらにボスニア湾に面したオラヴァイネンで戦役の行方を決定づける勝利を掴む。
 カメンスキーが勝つことができたのは、ある意味スウェーデン側のおかげである。彼が部隊再編を試みる間、スウェーデン軍が積極的な行動に出ようとしなかったことが大きく寄与した。また個々の会戦を見ると、カメンスキーはスウェーデン側に比べて諦めが悪いことが特徴。サルミではスウェーデン側は日中の戦闘では戦線を維持したのに夜になって後退し、カメンスキーを喜ばせている。オラヴァイネンではスウェーデン側の反撃で戦線が崩れかけた局面になっても諦めず、増援の到着まで持ちこたえて逆襲に成功している。この異常なまでの粘り腰はマレンゴでのボナパルトを思わせるところがある。
 こうした諦めの悪さは、対オスマン戦の際には要塞への無理な攻撃を継続させて損害を拡大することにつながった。この点もアクル攻撃にこだわって損害を増やしたボナパルトと似ている。ただ、カメンスキーはボナパルトほどの大軍を率いてはいない。あくまで1万人弱の部隊を率いたうえでの実績であり、そのレベルではかなり優秀な指揮官であったと見るべきだろう。より多数の部隊を率いて、例えば1812年戦役でロシア軍の指揮を執った場合にどれだけの結果を残せたかは、今となっては分からない。

 なお、アウステルリッツについて描いた本では散々に貶されていることが多いブクスヘヴデンだが、この本を見る限りでは指揮官としてそう悪い判断はしていない。カメンスキーが手元の部隊だけでやってのけた反撃についてブクスヘヴデンはその前に「増援がなければ反撃は無理」としていたところを見てもカメンスキーほど有能ではなさそうだが、かといって全くの無能と切って捨てるほど酷いことはしていない。Mikhailovsky-Danilevskyが手加減して書いた可能性はあるものの、本当にどうしようもない指揮官ではなかったように思える。

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