緩やかな内紛 上

 Peter Turchinが唱える永年サイクルが日本にはあまりうまく当てはまらない、という話は以前にした"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56026793.html"。2~3世紀単位でのサイクルが見つかりにくいというだけではない。Liebermanは東南アジアの歴史を日仏露と比較している"http://www.cambridge.org/jp/academic/subjects/history/south-east-asian-history/strange-parallels-southeast-asia-global-context-c8001830-volume-2"のだが、こちらでも日本だけが他とは違うサイクルを形成している。
 なぜそうなるのか、こちら"http://yaruoislife.blog.fc2.com/blog-entry-15973.html"で大日本帝国が敗亡した原因について示されている話を読んでいるうちに、ふと思いつくことがあった。「大日本帝国は西洋風貴族システムの導入に完全に失敗した」ことが軍官僚の暴走を招いた背景にあるという指摘は、もしかしたら明確な永年サイクルが見当たらないのと同じ原因から発生しているのではないか、という仮説だ。
 上記では西洋風の貴族システム、つまり大貴族が自ら武器を取るシステムと異なり、日本でトップが「武を捨てる」"http://yaruoislife.blog.fc2.com/blog-entry-16009.html"ことになった要因として仏教を挙げているが、これには同意しない。むしろ同じサイトにある「平和になると非常に素早い速度で平和ボケする」というフレーズにこそ、本当の原因が存在するのではないだろうか。

 まずは永年サイクルの話だ。Turchinの想定するようなきれいな永年サイクルが見当たらないのに加え、もしかしたら日本の特徴かもしれないと思われるのが人口に占めるエリート比率の高さだ。ここでいうエリートとは明治以降の華族ではなく、実質的な支配階層だった武士階級を意味する。以前にも紹介した幕末長州のエリート比率がこちら"http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/ehr.12071/pdf"で確認できるが、その比率は10%と英国の「貴族及びジェントリー」(5%)やインドのエリート(1%)に比べて随分高い(p409)。
 この数字はおそらくエリート本人だけでなくその家族も含めた数字だろう。そしてその数字の妥当性はこちら"http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7860.html"のデータからも窺える。ここに出てくる皇族、華族、士族、卒の合計に加え、戊辰戦争で身分を剥奪された元武士の存在まで考慮に入れれば、長州以外も含めた江戸時代の武士階級の構成比率は7%前後だと言われている。成人男子の、つまり実務に携わるエリートとしての武士は1.5%ほどだそうだ"http://blog.livedoor.jp/pac747/archives/4063981.html"。
 一方、時代が多少異なるが、1640年のイングランドにおけるエリート数についてTurchinはSecular Cycles"http://peterturchin.com/secular-cycles/"の中で、有力者160人、地方エリート4400人、教区のジェントリー1万5000人という数字を出している(p84)。全体としては2万人弱だ。一方、当時のイングランド総人口は約500万人。つまりイングランドにおけるエリート比率は0.4%で、江戸時代の武士階級に比べて4分の1強の規模にとどまる計算となる。
 もちろんこのデータは「武士」「貴族とジェントリー」「インドのエリート」という質の異なるものを比較している。だから単純な横並びで結論を出すと間違う可能性はある。それでも利用できるデータとしてこの数字を比較するなら、イングランドより日本の方が人口に占めるエリートの割合が高い。つまりイングランドの方がエリートの「凝集」度合いが高く、一方日本では権限がより幅広いエリート層に散らばっていた、と考えられる。
 上で紹介した「大日本帝国は西洋風貴族システムの導入に完全に失敗した」説においては、「現体制の特権階級」である貴族は体制を守ることに利益があるため、自分の組織を第一に考えて体制そのものを危うくするような暴走はあまりしないし、貴族同士のつながりを利用して各組織が協力して動きやすい、つまり「権力の遠心化」が起こりにくいと指摘している。
 だが権力が求心力を維持するためにはエリートが多すぎるのは拙い。永年サイクル論においても、エリートの割合が増え、既存エリートにカウンターエリートが対抗するようになることでサイクルが危機局面へと向かう構造を指摘している。エリートの数はイングランドのように1%未満まで絞り込んだ方がいいのだが、日本ではそういう体制が定着しなかった、のではなかろうか。イングランドに比べるとより幅広い「エリート」が権力に関与する仕組みが遅くとも江戸時代には存在しており、それがおそらく大日本帝国に至ってもしぶとく生き延びたと考えられる。
 つまり日本は少なくとも江戸時代以降、同時代の欧米列強に比べて分権的な国家だったのである。明治維新より前には幕藩体制という一種の封建制が生き残っていたし、明治以降になると本来は機能的集団であるべき官僚部門が共同体的集団となりそれぞれがセクショナリズムに基づいて自らの権限を行使するようになった。昭和の日本における権力の遠心化は江戸以前から存在した日本的な権力構造への回帰だった、と見ることができるのだ。
 これは制度の問題というより、その実務的運用の部分で日本人の身に染みついた習性のように見える。明治維新によって封建制が崩壊し中央集権に舵を切った後も、内閣の平均存立期間を短くするという形で分権性が表に出ている。空間的な分権が難しいなら時間的に分権しようというわけだ。戦後、首相の権限を強化することで制度面ではさらに集権的にしたが、そうなると今度は与党内での派閥争いという形で分権的な運用が表に出てくることになった。
 日本は平和時であっても「極めて緩やかな内紛状態」に置かれていた、と言うこともできるだろう。時にそれは単なる条件闘争を中心とした平和的な派閥争いのこともあるし、もちろん血を流すケースや恒常的に全国各地で紛争が起きる場合もある。ただし、誰かが対立者とその一族全てを滅ぼして専制的な権力を握るところまで至ることは滅多にない。エリートの「凝集」が過度に進むケースは、日本では生じにくいのだ。
 そうした流れは江戸時代より前まで遡ることもできる。関ヶ原の戦いで敗れた毛利も島津も滅ぼされることはなかったし、豊臣秀吉による天下統一の過程でも北条氏のように潰された大名がある一方、正面切って戦ったはずの徳川家が豊臣政権のナンバー2に潜り込んでいたりする。南朝方だったはずの北畠氏は北朝が勝ったあとの室町幕府で守護大名になっている。源平合戦で滅んだのは平清盛の一族だけで、執権となった北条氏をはじめとした平氏関連の諸族はきっちり残っている。蘇我入鹿が滅ぼされた後も蘇我氏の傍流はすぐには消え去っていない。

 もし日本が伝統的に集権度の低い政治体制を好むのだとしたら、それはなぜか。仏教ではあるまい。人は形而上の理由で行動するのではなく、自らの行動を正当化するため形而上の理屈を持ち出す。本当の理由は思想でも宗教でもない単なる「物理的要因」にある。容易に他国から攻め込まれないこの列島の地理的な位置づけこそが、平和ボケという名の「緩い内紛状態」持続を可能にした、というのが個人的な考えだ。
 大陸諸国、特にローマ分裂後の欧州のような「戦国時代」状態に置かれた国は常に隣国から侵略を受ける可能性を抱えている。こうした国々においては分権的な体制はそのまま滅亡へと直結するルートになりかねない。貴族たちの権力が大きく絶対王政を確立しそこねたポーランドは典型。あるいはこちら"http://www.reenactor.ru/ARH/PDF/Agoston.pdf"で紹介されているオスマンとロシアの対比も参考になるだろう。16世紀までは似たような戦い方をしていた両国だが、17世紀以降にロシアが「軍事―財政国家」として中央集権を進めたのに対しオスマン帝国は逆に分権へと進んだことが説明されている。
 イングランドは日本と同じ島国だが、日本よりはるかに大陸と近く大陸勢力の侵攻と支配を何度も受けてきた。ローマ帝国、アングロサクソン、デーン、そしてノルマンコンクェスト。九州と朝鮮半島を隔てる対馬海峡の幅が約200キロメートルもあるのに対し、英仏海峡は狭いところでたった34キロメートルだ。イングランドの政治体にとって、他国の侵攻と支配は日本よりもずっと深刻な懸念材料だっただろう。
 こうした懸念や実際の経験は、イングランドのエリート支配をより大陸国家的な形態にすることにつながったと思われる。即ち、生き延びたければエリートを凝集させること。少数の手に権力をしっかり握り、集権的な政治体制にすること。それが上記の考察にいう「西洋風貴族システム」の実態ではないか。

 長くなったので以下次回。
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