メスキルヒの戦い 蛇足

 メスキルヒの戦いについて、蛇足をいくつか。

 以前、フランス革命戦争でも特に規模の大きな「4大会戦」を紹介した"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/48590730.html"時には、Digby SmithのNapoleonic Wars Data Book"http://www.napoleon-series.org/greenhill/library/c_databook.html"を使って規模を調べた。では同じことをGaston BodartのMilitär-historisches Kriegs-Lexikon"https://archive.org/details/bub_gb_Eo4DAAAAYAAJ"でやってみるとどうなるだろうか。結論から言うなら、Smithより多くの戦いが大規模会戦となった。
 最大とされる会戦は1794年4月26日に行われたカトー=カンブレシ(トロワヴィユ)の戦い(p287)。コーブルク公率いる連合軍9万人が、ピシュグリュが指揮する同数のフランス軍に勝利したとされる戦いである。だが英語wikipediaでトロワヴィユの戦いを示すボーモン=タン=カンブレシの戦い"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Beaumont_(1794)"について調べてみると、参加兵力はフランス軍が3万人、連合軍が2万人と随分小さな規模になっている。
 A history of the British army, volume 4"https://archive.org/details/p1historyofbritish04fortuoft"にこの日の戦闘が紹介されている(p240-243)。実はこの日、フランス軍はランドルシーを攻囲する連合軍に対して広範囲にわたって攻撃を仕掛けた。その全体を記したのがBodart本の記述であるのに対し、wikipediaの記述はそのうちトロワヴィユ周辺の限られた戦場で戦った数だけを取り上げたものだと考えられる。
 実際にはフランス軍右翼(2万2000人)はマロイユやプリッシュで、中央(2万3000人)はオワジーやヌヴィオンで連合軍と戦っていた。どちらもトロワヴィユからは20キロ前後離れた場所にあり、例えばワーテルロー戦役におけるリニーとキャトル=ブラ間(12キロほど)より倍近くも遠い。だがBodart本では一連の戦闘を全部ひとまとめにして1つの会戦にしてしまったようだ。
 次に大規模なのは1794年10月2日のアルデンホーフェンの戦い(p298)だ。参加したのはフランス軍8万8000人、オーストリア軍7万7000人の計16万5000人。こちら"https://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_bei_Aldenhoven"ではさらに多い数も出ている。こちらはフランス軍によるルール河の渡河作戦の際に行われた戦いだが、フランス軍右翼が攻撃したデューレンと、左翼が渡河したラートハイムの距離は40キロ近く離れている。これまたトロワヴィユ同様、1つの会戦というより実際はいくつもの細かい戦闘が同時に行われたと見る方がよさそうだ。
 次は1800年5月3日のエンゲンとシュトックアッハの戦い(p352)。フランス軍が8万4000人、オーストリア軍が7万2000人となっているが、これについては「4大会戦」について触れたエントリーでも述べたように、実際には20キロほど離れた2つの地域で行われた戦闘を一つにまとめたものであり、これまで紹介してきたものと同様、1つの会戦というには距離が離れすぎている戦いだ。
 次に参加兵力の多い戦いが、「4大会戦」のエントリーで言及済みとなっている1794年5月18日のトゥールコアン(p289)の戦い。Bodart本ではフランス軍7万人、連合軍7万4000人となっている。その次はこれまた言及済みである1794年6月26日のフルーリュスの戦い(p293)。こちらはフランス軍8万1000人、オーストリア及びオランダ軍が4万6000人という数字だ。
 これに続くのが1800年12月25~26日のミンチオの戦い(p359)。フランス軍が6万6000人、連合軍が5万人というのがBodart本の数値だが、実はこの戦いはポッツォロ、ヴァレッジョ、モンツァンバーノという3つの戦いの合計だとも記されている。ブリュヌ率いるフランス軍によるミンチオ渡河のための戦いだが、ポッツォロからヴァレッジョを経てモンツァンバーノへ至る道は10キロ強の距離があり、どこまでひとまとめの戦いと見なすべきか判断に苦しむ。
 その次に多いのは、「4大会戦」のエントリーでフルーリュスの前哨戦として紹介した1794年6月16日の戦い。Bodart本ではランビュサールの戦いとなっており(p293)、戦力はフランス軍7万3000人、連合軍4万1000人だ。その次が「4大会戦」にも入っていた1800年12月3日のホーエンリンデンの戦い(p357)。数はフランス軍5万5000人、オーストリア及びバイエルン軍が5万7000人となっている。
 最後にぎりぎり参加兵力10万人に達している戦いが2つ。1つはもちろんメスキルヒの戦いだが、もう1つは1799年6月4日に行われたチューリヒの戦い(p336)だ。有名なマセナとロシア軍の間で行われた第2次チューリヒ会戦(p343)の方ではなく、カール大公率いるオーストリア軍5万5000人とマセナのフランス軍4万5000人とがぶつかった方である。この会戦は一応オーストリア軍勝利となっている。

 もう一つ、メスキルヒの戦いを見ていて目に留まるのが、参加している指揮官たちの中にマニャーノの戦い"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/scherer.html"にも加わっていた面々がいる点だ。1年強前にアルプスの南で顔を合わせた連中が、今度はアルプス北方、ドイツの地で再び戦うことになっているのは興味深い。
 マニャーノにいたオーストリア軍"http://usacac.army.mil/CAC2/CGSC/CARL/nafziger/799CAE.pdf"の指揮官で、メスキルヒにもいたのはもちろんクライ"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/kray.html"だ。マニャーノの時はメラスが到着するまでの暫定司令官として活動していたが、1800年にはドイツ方面の司令官になっている。おそらくマニャーノの勝利による論功行賞で司令官の座にまで上り詰めたのだろう。
 フランス軍ではマニャーノの戦い"http://usacac.army.mil/CAC2/CGSC/CARL/nafziger/799CAF.pdf"で中央を指揮していたモロー"https://www.napoleon.org/en/history-of-the-two-empires/biographies/moreau-jean-victor/"の存在がやはり目立つ。彼はもともと軍司令官になれる立場の人物だったが、ヴァンデミエールのとばっちりで1799年の時点では干されていたのだろう。しかしフランス軍の敗北が相次いだ後はそんなことも言っていられず、土地勘のあるライン方面の軍司令官になっていた。
 他にフランス軍では2人の師団長がイタリアからドイツへと転出している。まず1人はデルマ"https://fr.wikipedia.org/wiki/Antoine_Guillaume_Delmas"。Clausewitzの著作"https://books.google.co.jp/books?id=8L03AQAAIAAJ"に載っているマニャーノの戦いの配置図(p215)に従うならデルマはこの戦いで予備の位置にいたが、メスキルヒでもモロー直率の予備軍団に所属しており、戦場には遅れて到着した。
 もう1人は、メスキルヒでルクルブの右翼軍団に所属し会戦の最初から交戦に参加していたモンリシャール"https://fr.wikipedia.org/wiki/Joseph_H%C3%A9lie_D%C3%A9sir%C3%A9_Perruquet_de_Montrichard"。マニャーノの時は左翼にいたのでその位置は入れ替わっているが、彼もまたアルプスの北方に舞台を移して戦っていたようだ。もしかしたらモローがデルマと一緒に彼を連れて来たのかもしれない。

 なお、この時代のフランス軍の将軍たちについては、こちら"https://fr.wikisource.org/wiki/Biographie_des_c%C3%A9l%C3%A9brit%C3%A9s_militaires_des_arm%C3%A9es_de_terre_et_de_mer_de_1789_%C3%A0_1850"で結構詳細な内容がチェックできる。
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