メスキルヒの戦い 5

 承前。メスキルヒの戦いはまとまりのない、バラバラな戦いだったと指摘している向きが多い。もともとフランス軍もオーストリア軍も敵に遭遇する可能性をあまり考えていなかった。また両軍は広い範囲に散らばり、部隊ごとに行動していたため、遭遇した際には各部隊長が自らの判断で動く必要に迫られた。そこでは司令官が予め戦場を想定し、決定的な命令を与えて勝利をつかむという、後世から見て分かりやすい展開は存在しない。
 実際、両軍の総司令官が会戦において下した判断は、極めて限定的だった。モローはそもそも戦いが始まった時点では後方シュトックアッハにまだ残っており、その後にしたこともせいぜい予備軍団に進軍を急がせることくらい。一方のクライは、ホイドルフの戦闘が激しくなったのを見て予備をそちらに投じるという行動を取ったが、これは勝利につながるというよりメスキルヒの失陥をもたらす効果の方が大きかった。
 フランス軍で主に戦うことになった右翼軍団の指揮官であるルクルブの活動も、それほど大きな影響を及ぼしてはいない。彼はロルジュ師団に対し、モンリシャールの左翼に展開してホイドルフを攻撃するよう命じ、自らも彼らと合流している。この攻撃は結果的にクライの反応を引き出してメスキルヒ奪取をもたらすことになったが、ルクルブ自身はそこまで想定して行動したのではなく、あくまでモンリシャールの前進を助けるための策として実行したに過ぎないと見られる。
 メスキルヒ命令を受けていなかったモリトールが銃剣突撃を実施したのはこの町を奪ううえで重要だったが、これも誰かの命令ではなく現場指揮官である彼が自分の判断で行ったものだ。ヴァンダンム自身はさらに影が薄く、何をしていたのかよく分からない。予備軍団ではデルマやバストゥールが活躍したのは確かであるが、彼らも目の前に起きている事象への対応を優先して行動しただけである。
 連合軍ではフランス軍左翼へ攻撃をかけたフェルディナント大公、リーシュ、ギューライ、ローゼンベルクらの行動が目立つが、これもその大半は自己判断での対応だった。自軍が分断されると困るという点で彼らはおそらく司令官クライと一致していたが、クライをトップに上意下達で整然と物事が進んだとは言い難い。
 こうした「司令官の意図不在」もしくは「意図の伝達不在」といえる状況は、会戦に参加しなかった部隊の動向を見るとよりはっきりする。オーストリア軍ではフォアアールベルクにいるロイス公に、できるだけフランス軍を牽制するよう要請がなされていたが、彼らがこの戦いにおいてフランス軍の行動に影響を与えるような何かを行ったという話はまったくない。
 フランス軍側ではサン=シールの動きが典型だろう。彼が正直言ってかなり特殊な性格の持ち主であり、その行動原理が上官にとってやっかい極まりないものであったのは確かだ。何しろナポレオンですら「彼を用いたのは失敗だった」と述べているほど"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/del.html"で、戦友を助けるという動機に乏しい人物だったのはおそらく事実だろう。それでもそんな人物が自由にふるまえる状況がこの時代の戦争に存在していたことは見逃せない。
 もちろん、物理的にどうしようもなかった部隊もあった。サント=シュザンヌ率いるフランス軍左翼軍団はこの日、ずっとドナウ左岸で活動しており、戦場にたどり着ける状況にはなかった("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p295)。しかし、物理的に対応可能だった部隊も、この左翼軍団と同じくらい司令官が把握しきれていなかったのがこの戦いの特徴だ。

 そしてこれはメスキルヒだけの特徴ではない。例えば同年暮れに行われたホーエンリンデンの戦い。ここではフランス軍ではなくオーストリア軍の方が攻撃に出たが、司令官が各部隊の歩調を合わせきれず、ばらばらに動いた挙句にそこを敵に衝かれたことを既に紹介している"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52811810.html"。
 一方のフランス軍も、勝利したとはいえそれはギリギリ、というか幸運のおかげに過ぎなかった"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52816022.html"。右側面から敵を攻撃したリシュパンスのタイミングが前後に少しでもずれていれば、勝利どころか大敗北になっていてもおかしくない。モローの戦いにはこのようなものがあり、それはナポレオンによる「軽率な行い」という指摘にも表れている。
 司令官が全体をコントロールできず、部隊を広範囲に散らばらせ、それぞれの部隊が個別に目の前の状況へ対応し、そのトータルの結果として勝敗が決まる。そうした戦闘は、特にフランス革命期にはしばしば見られる。連合軍の各縦隊がバラバラに前進した結果、フランス軍が運よく勝利をつかんだトゥールコアンの戦い"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52203638.html"もその一例だろうし、そもそも司令官が戦場から離れた位置にとどまっていたハントシュースハイムの戦い"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54684182.html"もしかりだ。
 おそらく18世紀の欧州人は、これがArt of Warだと思っていたのだろう。そうではなく、理想はナポレオンのように全ての状況を自分で把握する戦いだったのかもしれないが、現実にはできていない事例が多すぎる。もちろんナポレオンだって万能ではないし、間違えることもあるが、少なくとも彼は他の将軍たちよりも配下の部隊をきちんとコントロールしている。
 そしてそれが属人的問題ではなくシステムの問題だと考えられる理由もある。フランス革命期には広範囲でバラバラな戦いが生じるケースが珍しくなかったのに対し、ナポレオン戦争期になれば以前よりもコントロールしやすい狭い戦場で戦う事例が増えてくるのが理由だ。典型は1794年のフルーリュスの戦いと、1815年のリニー及びキャトル=ブラの戦いだろう。
 BodartのMilitär-historisches Kriegs-Lexikon"https://archive.org/details/bub_gb_Eo4DAAAAYAAJ"によれば、前者の参加兵力が12万7000人(p293)だったのに対し後者は合計20万8000人(p486)と圧倒的に多い。だがそれぞれが展開した戦場を見ると、フルーリュス"https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Map_Fleurus_1794.jpg"に比べてリニーとキャトル=ブラ"http://www.emersonkent.com/images/ligny_quatre_bras.jpg"は随分とコンパクトである。
 革命戦争初期においては、どちらの司令官も部隊がバラバラに散らばることを当然だと思っていたのに対し、ナポレオン戦争末期には逆に部隊をできるだけコンパクトにまとめることが優先された。その差がこの図に表れていると考えるべきだろう。通信技術が今よりずっと未熟だったこの時代において、本気で部隊をコントロールしたければ、できるだけ狭い範囲に彼らを集めるしかない。それを積極的に実行したのがナポレオンであり、彼の成功を見て追随者が続々と登場したのがナポレオン戦争期だと考えれば辻褄が合う。
 簡単に言うなら、ナポレオンは戦場における兵力の効率性を高めたのだろう。自分のコントロール下に置ける兵力を増やすことでそれを効率よく相手にぶつける。彼より古い、非効率な軍事行動に慣れていた将軍たちは、その高い効率の前に膝を屈する。ナポレオンが皇帝にまで成り上がれたのは、この部分で彼が他者より徹底していたためかもしれない。
 しかしその彼も、後にはやり方を真似られ自分だけが高い効率を維持できなくなった。そこで彼が回帰したのは、革命戦争初期に猛威を振るった「動員数を増やすことによる数の暴力」。それができたのはフランスが当時の欧州でもトップクラスの人口を抱えていたためだが、最終的には敵を増やしすぎたことでこの優位を自ら潰してしまった。あの時代の戦争についてごく大雑把にまとめると、そんな傾向が存在したように思う。
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