メスキルヒの戦い 4

 承前。モローの予備軍団でデルマ師団の次に行軍していたのはバストゥール師団だった。彼らがクルムバッハに到着したのは、デルマがちょうどリーシュの攻撃を支えている時だった。常にフランス軍の左翼へ回り込もうとしているオーストリア軍に対抗するようにバストゥールはクルムバッハ正面に広がり、デルマ師団の左側面をカバーする形になった("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p276-277)。
 左翼側へやってくるオーストリア軍は、バストゥール同様に新たに戦場に到達した部隊だった。ローゼンベルク将軍の部隊がシュヴァンドルフから、ギューライがビーティンゲンからクルムバッハへと到着した。モローはバストゥール師団をクルムバッハとボルの間に北西を向いて配置し、この新たな敵に備えた。モローは特に物資の輸送に使っているシュトックアッハとメスキルヒの主要街道を敵に奪われることを恐れ、バストゥールにその防衛を命じた。
 バストゥールの右翼旅団はクルムバッハへと急ぎ、ビーティンゲン方面からの攻撃に備えた。左翼旅団はボル方面から出撃しようとする敵を牽制した。予備はクルムバッハ東方の谷間に守られ、事態に応じてどちらにも応援に行けるようにした。第14軽半旅団、第53半旅団、第10及び第23猟騎兵などの活躍により、オーストリア軍による攻撃は防がれた(p277-278)。それでもオーストリア軍は勝利を求めてこの方面で最後の攻撃をデルマ師団とバストゥール師団の正面で試みた。デルマは予備として残していた第108半旅団を投じてこれを防ぎ、そして予備軍団の最後の師団であるリシュパンスの到着により、戦闘の行方が定まった。
 デソル曰く、彼らの到着によって「我らの兵は新たな力とともに敵に突撃した」(p279)。オーストリア側も彼らの出現により「フェルディナント大公はアルトハイムへと撃退され、ローゼンベルク将軍とギューライ将軍は圧倒された」("https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C" p17)と記している。さらにリシュパンス師団は砲撃によって敵の退却を急がせ、会戦を終わらせることに成功した。第5ユサール連隊も活躍したという。

 午後8時、夜の到来とオーストリア軍の退却で戦いは終わった("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p269)。フランス軍の多くは戦場にとどまってそのまま野営した。戦いの終了後にその場にとどまっていたのがフランス軍だったため、勝利は彼らのものだと言えたが、その対価は決して安いものではなかった。
 メスキルヒ攻撃以外に本格的な交戦のなかったヴァンダンム師団の損害はよく分からないが、最初に戦いを始めたモンリシャール師団は死者59人、負傷者468人、捕虜170人の他に、馬匹の死亡49頭、負傷35頭の損害を受けた(p263)。午後になって戦場に到着したデルマ師団はさらに損害が大きく、死者119人、負傷者577人、捕虜130人だった(p275)。
 デルマと並んで戦ったが戦闘時間は短かったバストゥール師団の損害は死者20人、負傷者187人、捕虜106人で、馬匹は8頭が死に9頭が負傷した(p279)。モンリシャール師団に同行していた予備軍団の騎兵師団(ドープール)は、ある資料によれば将兵63人、馬匹97頭の損害を出したとあるが、ドープール自身の手紙には将兵89人、馬匹90頭の損害と書かれていたという(p282)。
 全体の損害はどの程度だったのか。デソルは報告書の中で「1200人から1500人の死傷者」が出たとしているが、上に紹介した各師団の数字を足し合わせるだけでこれに近い数になる。実際には全体の半分ほどの師団はそもそもこのデータすらないわけで、実際にはもっと多い数だったと見られる。一方、オーストリア軍の損害について、フランス側は8000人という数字や「死傷者3000人から4000人、捕虜3000人」(p457)という数字を出しているのに対し、オーストリア側は「死者477人、負傷者1919人、捕虜1571人の合計3967人と、馬匹311頭」("https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C" p17)の損害だったとしている。

 近くにいたにもかかわらず、この日の戦闘にほぼ参加しなかったフランス軍もいた。サン=シール率いる中央軍団だ。配下のネイ師団は前日時点でエンゲン北方のハッティンゲンにおり、早朝には前衛部隊がリプティンゲン西方まで偵察に向かった。そこに2000人ほどの敵がいることを確認した偵察部隊はエミンゲン村南方へと後退した。
 ネイの目的はトゥトリンゲン北東のミュールハイム近くでドナウ右岸に達することだったが、オーストリア軍がメーリンゲン付近でなおこの河川の両岸に展開していることを知り、まずトゥトリンゲンへと進んだ。フランス軍はこの地にいた敵を追い払ってドナウにかかる橋を確保した。オーストリア軍は東のノイハウゼンへと後退し、多くの騎兵と砲兵を配置してネイがこれ以上進むのを妨げようとした("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p283-285)。
 ネイ自身もあまり熱心に追撃しようとはしなかった。午後になり、この方面のオーストリア軍がメスキルヒの戦いに向けて動き出してから、初めてネイは断固として前進を始めた。この日、彼がサン=シールに宛てて書いた手紙には、午後になり右翼側の砲声が激しくなってから彼の正面にいる敵が減ってきたことを記し、「敵の行軍と移動を監視するため攻撃を繰り返す」との方針を述べている(p286)。
 ネイ師団の到着は遅かったようで、午後6時になってようやく前衛部隊がノイハウゼンの正面に布陣したという。彼らは何の障害にも出会わず、また常にメスキルヒ方面の砲声を聞いていた。ここからネイはさらに進軍を急がせたようで、おそらくはローゼンベルクやギューライの後衛部隊と戦いながら、午後8時にはシュヴァンドルフの出口とグリュンデルブーフの高地まで到達した。しかしこの前進は遅すぎ、サン=シールと予備軍団の間に挟まれていたはずの連合軍右翼は、サン=シールから脅威を受けることがほとんどなかった。ネイが後続の到着を待ち、前進を始めるのが遅かったためだ(p286-288)。
 ネイ以外の中央軍団所属2個師団(タローとバラギュイ=ディリエ)は、ネイよりさらに遠いところをうろうろしていた。前日時点ではいずれもエンゲン付近にとどまっていた彼らは、夕方にバラギュイ=ディリエがリプティンゲンへ、タローがトゥトリンゲンに到着していた程度で、オーストリア軍に襲い掛かるのは難しい状態にあった。
 加えて軍団司令官だったサン=シールは、この時点で命じられた移動は行ったと判断。ネイがノイハウゼン方面で抵抗を受けたことを知るとその時点でこれ以上は進まない決断をした。「両部隊(中央軍団とモローの予備軍団)の間の距離はそれほど大きくなく、容易かつ確実な連絡が取れるのだから、遅れるはずがないモローの命令を待つべきだと決めた」("https://books.google.co.jp/books?id=HUIW6SDTsuEC" p188)とサン=シールは述べる。中央軍団が会戦に参加しなかったのはモローの命令が来なかったため、というのが彼の言い分だ。
 これに対しRevue d'histoireの著者はサン=シールを批判している。実際にはモローはいくつかの伝令を発したが、彼らはオーストリア軍に妨げられ、中央軍団のところまでたどり着けなかった。決して「容易かつ確実な連絡」が取れる状態ではなかった。それに命令がなくとも、激しい砲声が聞こえていたのは事実であり、砲声が聞こえたなら部下が支援に駆けつけるとモローが考えることは十分にあり得る、というのが彼の指摘だ("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p289)。
 さらに大きな問題は、サン=シールのところに伝令ドルレーがたどり着いたと主張しているデカーン将軍の記録だろう。彼によれば、サン=シールはドルレーの増援要請に対し「モロー将軍は困難から抜け出せるだろうから、私はここで大人しくしていよう」と答えたらしい("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k36747m" p7)。ジョミニは、命令を受け取ったサン=シールが戦いは負けたと信じ、モローがシュトックアッハへと後退している最中にメスキルヒに突入することを恐れたのだという説があることを紹介し、「歴史がいずれ事実を明かすだろう」("https://books.google.co.jp/books?id=ML4AAAAAYAAJ" p155)と記している。

 以下次回。
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