メスキルヒの戦い 3

 承前。ボンドルフの高地とシュトックアッハ近くにいたヴァンダンム師団は5日午前2時に2つの縦隊に分かれて行軍を始めた。一方はボンドルフとプフレンドルフ間の地域を調べたうえでメスキルヒへ、他方はクロスターヴァルトを経由してやはりメスキルヒへと向かった。彼らはいずれもほとんど抵抗を受けなかったが、偵察に時間がかかったのか、あるいは道が悪かったためにメスキルヒ前面に到着するのは遅くなった。途中、クロスターヴァルトの修道院でワインを兵士に配布したのが理由だとも言われる("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p245-246)
 メスキルヒに最初に接近したのは第36、第94半旅団と第1軽の第1大隊と、それに続く第8ユサール連隊で構成されたモリトール率いる分遣隊だった。彼らはクロスターヴァルトで2個ハンガリー大隊と接触し、第36が銃剣突撃を行って200人の捕虜を奪った。さらに彼らはメスキルヒに近づくと、森を利用し散兵を左右へ送り出してメニンゲンとシュナーキンゲンを奪った。モリトールの部隊はアブラッハ川の東南高地に布陣した。
 翌日モリトールがルクルブに書いた報告には「帝国軍はほぼ全戦力をメスキルヒに集め、とても有利な陣地を占拠していた。特に恐ろしい多くの砲兵がそこにいた」(p248)とあるが、この時点では既にクライはホイドルフへの攻撃に対応して左翼の戦力をそちらへ動かしていたと思われる。またモンリシャールが南西から攻撃を仕掛けていたため、そちらにも対処する必要があった。それでも彼らはアブラッハ北西におそらく8000人から9000人を配置したほか、メスキルヒ自体も3000人と大砲15門で守っていた。これに対しモリトールの砲兵は榴弾砲1門と8ポンド砲1門しかなく、いずれもすぐ敵の砲撃で破壊された。
 モリトールはメスキルヒ攻撃を命じられていなかったが、「この重要な拠点の奪取にこの日と、そしておそらくは戦役全体の運命がかかっている」(p249)と判断。彼は3つの縦隊を編成し、自ら中央縦隊の先頭に立ち、第36の2個大隊を予備として残したうえで駆け足で前進を命じた。敵は歩兵が銃撃、砲兵が散弾を浴びせて抵抗したが、敵が小川に沿ったたった1つの戦列しか敷いていないのを見たモリトールは、その側面を突けば攻撃は成功すると確信していたという(p250)。
 同じタイミングで、これまで足を止められていたモンリシャール師団もメスキルヒへの攻撃を決断した。彼は4個縦隊を組んで森から出撃し、正面の敵を押し戻してメスキルヒをカバーする高地を奪って、さらにメスキルヒへ向かった(p261)。一方、モリトールの3つの縦隊も一発も撃つことなく前進し、銃剣を構えて町に突入。この同時攻撃はかなり効果的だったようで、フランス軍は600人の捕虜を奪い、モリトールとモンリシャールの部隊は町の中で合流した。時間は午後1時頃だった(p251)。
 突撃によってオーストリア軍は混乱に見舞われた。それを見たフランス軍は急ぎ部隊を再編し、メスキルヒを見下ろす北方の高地を次の目標に定めた。モリトールは予備の部隊も呼び寄せ、モンリシャールとともにここへと前進。だが事前にメニンゲン方面へ派出されていたフランス軍部隊によってジクマリンゲン方面への退路が遮断されそうだと判断したオーストリア軍は、彼らを待つことなくこの高地から撤収し、ローアドルフへと後退した(p252)。ただしOestreichische Militärische Zeitschriftによれば彼らが後退したのはエンゲルヴィース方面となっている("https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C" p15)。
 メスキルヒへの攻撃成功に最大の寄与をしたのはモンリシャールかモリトールか、という議論が後に起きた。モリトール自身は自分たちこそが主役だと指摘し、Revue d'histoireもそちらの主張を認めている。モリトールの攻撃がオーストリア軍の背後を突くことがなければ、モンリシャールは前進すらできなかったというのが理由だ。加えて、何よりクライがこの方面の予備部隊をタールハイム、ホイドルフ方面へ回していたことがフランス軍の「メスキルヒ経由の出撃に有利に働いた」("https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C" p15)。
 ヴァンダンム師団のもう1つの旅団であるルヴァル将軍の到着はもっと遅れ、メスキルヒ奪取後にようやく到着した。彼らはモリトールと一緒にメスキルヒ北方に展開し、敵の反撃に備えた("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p253)。モンリシャール師団もまたメスキルヒ北方に布陣し、ナンス―ティとドープールの騎兵師団がそれをカバーした(p262)。
 彼らはオーストリア軍の反撃に備えていたが、この方面は以後小競り合いのみとなる。午後9時には戦闘が終了し、ヴァンダンム師団はメスキルヒの南方まで後退してそこで夜を過ごした。第36半旅団と第8ユサール連隊はクロスターヴァルトへと戻って部隊の右翼を構成した。彼らの損害は約500人に上ったという。

 モリトールとモンリシャールの手によってメスキルヒは落ちたが、オーストリア側は戦闘を諦めたわけではなかった。クライはルクルブの部隊が孤立していると考え、その左側面を攻撃して他の部隊から切り離そうとしていた。また午後2時頃からブーフハイムに到着し始めたフェルディナント大公は、フランス軍が勝つと自分たちの方がクライの主力から切り離されると考え、歩兵10個大隊、騎兵25大隊を率いてアルトハイムへと移動した。リーシュはフェルディナントの前衛部隊とタールハイムで合流し、ホイドルフとメスキルヒ間にあるタールミューレへの攻撃を仕掛けた(p266-267)。
 彼らの攻撃に直面したのは、直前にホイドルフを奪取したばかりのロルジュ師団だった。最初にやって来たのはジョミニによればクライが送った予備部隊で、擲弾兵2個大隊がロルジュの右翼とモンリシャールのいる森へ、6個大隊と大砲16門がロルジュの左翼に当たるビーティンゲン方面へ向かった。ブーフハイムからアルトハイムへ移動したバイエルン部隊に支援されたこの攻撃は完全に成功した。ロルジュ師団はあらゆる方面で敗れ、オーストリア擲弾兵はノイハウゼンからメスキルヒまでの街道上にある森を支配した("https://books.google.co.jp/books?id=ML4AAAAAYAAJ" p151)。
 その直後にフェルディナント大公率いる連合軍右翼部隊も戦場に到達し始めた。ロルジュ師団は北方だけでなく西方や南方まで敵に面することになり、フランス軍は窮地に陥った。その時、ルクルブ軍団から間を空けて同じ街道を北上してきたモローの予備軍団が、ようやく戦場に姿を現した。

 予備軍団の先頭を行軍していたのはデルマ師団だった。彼らはロルジュ師団を押し戻していた連合軍と接触を開始。午後3時頃に一度はオーストリア軍に奪われていたクルムバッハを奪回した。第108半旅団と第6騎兵連隊は西方へ向かった。デルマ師団は右翼軍団と予備軍団が形成する戦線が鈍角に曲がった部分に位置しており、ロルジュ師団が困難に陥っているのを見て戦線を右翼へ伸ばし、フランス軍の退却によって生まれたホイドルフの隙間を埋めた。
 この時、リーシュの激しい攻撃によって第14半旅団の第1大隊と第50の2個大隊がメスキルヒ―クルムバッハ街道近くの森の端で包囲され、ほとんど捕虜になりかけた("https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C"のp16、及び"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q"のp273)。だが救援に送られた第46がオーストリア軍を追い払うことに成功した。
 デルマの到着によって助かったのはロルジュ師団だった。また彼らに対してはその右翼側にいたモンリシャールが午後5時に3個大隊の増援を寄こした。彼らはまた騎兵予備の一部も左翼に回し、それによって戦線を安定させた。連合軍はさらにフランス軍の左側へと攻撃をシフトしていった。
 デルマ師団の左翼にはフェルディナント大公、ブーフハイムから来たヴレーデ旅団、そしてヴォルンドルフから来たギューライが攻撃を仕掛けた。これに対抗したのは、イタリア方面軍で活躍し、Le terribleの異名を得ていた第57半旅団と大砲16門だった。デルマ自身が率いたこの半旅団は機会を見ては前進してきた敵に突撃してこれを押し戻した。師団騎兵もこれを支援した。オーストリア軍はさらに戦線を南方へと動かし、デルマの次にやってきたバストゥール師団とぶつかることになった。

 以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック