メスキルヒの戦い 2

 承前。エンゲンでフランス軍と五分で戦ったクライは4日朝に再び攻撃を行うつもりだったが、ルクルブに敗れたロートリンゲン公がジクマリンゲン方面へ退却したと知ってこのアイデアを放棄。リプティンゲンを経てメスキルヒへ後退するよう命令を出し、4日午前3時にエンゲンのオーストリア軍は4つの縦隊に分かれて退却を始めた。右翼のフェルディナント大公はハッティンゲンを経てエミンゲンへ向かい、トゥトリンゲンから来たギューライ将軍の部隊、及びヴレーデ率いるプファルツ選帝侯・バイエルン旅団と合流した。
 オーストリア軍主力はリプティンゲンで合流した後、今度は2手に分かれ、それぞれクルムバッハとノイハウゼンを経由してメスキルヒへ向かった。前日に敗走していたロートリンゲン公もメスキルヒへ向かった。クルムバッハには前衛部隊としてナウエンドルフが配置され、背後の森にもまとまった部隊が置かれた。シュトックアッハの敗戦後にイーバーリンゲンへ後退していたガヴァシーニはプフレンドルフへ移動。南方から接近してくるフランス軍に備えて哨戒線が敷かれた("https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C" p11-13)。
 クライが布陣したのは森がちで険しい山の斜面であり、右翼をタールハイムに、中央をメスキルヒに、左翼をメニンゲンまで伸ばしていた。ロートリンゲン公がメスキルヒ周辺に、バイエ師団の分遣隊はシュマーリンゲン[ママ、シュナーキンゲンか]に布陣。フェルディナント大公はノイハウス=オプ=エクまで進み軍主力に接近しようとしていた(p13-14)。一方この日、フランス軍は全く動こうとしなかった("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p241)。おかげでクライは兵を休ませることができた。
 5日(共和国暦だと花月15日)朝にモローがベルティエ宛に記した手紙には、この時点での彼の考えが反映されている。彼は「情報によると敵は昨日(4日)にウルムで合流しイラー沿いに布陣するためドナウ左岸へ渡ったそうだ」と述べ、可能ならイラーに橋頭堡を確保する考えだと記している(p242)。フランス軍が4日の時点でオーストリア軍を全く追撃しなかったのは、3日の戦闘だけで敵がドナウ左岸へ撤退したと見ていたからだろう。
 そしてクライの側もメスキルヒで敵の攻撃を受けるとは考えていなかった("https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C" p13)。4日に追撃を受けなかったクライは、フェルディナント大公やギューライと合流するためメスキルヒで足を止めたのだろう。「クライは攻撃されたから戦ったのであり、なぜ攻撃されたかというと彼が足を止めた地点に行軍するようフランス軍が命令されていたからだ」("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p459)。両軍は具体的な戦闘プランに基づいて行動したのではなく、そこにあったのは無計画な遭遇戦だった。

 5日、フランス軍が移動を始めた。ルクルブ軍団はフォアアールベルクのロイス公に対応するべくボンドルフに1個旅団を配置した後で、真夜中から順次シュトックアッハを出発。ヴァンダンム師団は右側のクロスターヴァルトへ向けて行軍し、モンリシャール師団とロルジュ師団はいずれもシュトックアッハからクルムバッハを経てメスキルヒへ向かう主要街道を進み、右翼軍団に所属するナンス―ティの騎兵師団に加え、予備軍団所属のドープール騎兵師団も彼らとともに前進した("https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C" p14)。
 モローの予備軍団(歩兵3個師団)はルクルブの背後に第2線を形成するべく自由に道を選んで前進するが、その際にシュトックアッハからクルムバッハへ向かう街道はルクルブ軍団のため空けておくことになっていた。しかし適切な道を見つけられなかったためか、3個師団は全て右翼が通過した後の主要街道を進んだ。ルクルブが移動するのを待ったため彼らの移動は大幅に遅れ、メスキルヒの砲声が聞こえた時にようやく予備軍団は出発した("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p271-272)。
 最初に連合軍と接触したのは、主要街道を進んだ部隊の先頭にいたモンリシャール師団だ。午前3時に行軍を始めた彼らは、午前6時前後にクルムバッハ付近でナウエンドルフの偵察隊と遭遇したという(p255)。現在の地図で見るとシュトックアッハからクルムバッハの距離は14.5キロ。日の出前の3時間で到着するには遠すぎる距離だと思うが、Oestreichische Militärische Zeitschriftにも午前6時とある(p14)ところを見ると、実際には出発時間がもっと早かった可能性がある。
 いずれにせよモンリシャールは彼らを攻撃してクルムバッハから追い払った。さらに彼らはメスキルヒへの道を取ったが、この道は途中で森の中の隘路を通っており、そこにはオーストリア軍が待ち構えていた。前衛部隊を支援するため森の東側(メスキルヒ側)の端にいた彼らはフランス軍を迎え撃ち、その行軍を止めた。モンリシャールはクルムバッハ北東にある丘で足を止め、後続のロルジュが到着するまで待機することにした。
 ロルジュ師団がクルムバッハに到着したのを機にモンリシャールは、ジョミニによれば午前9時頃("https://books.google.co.jp/books?id=ML4AAAAAYAAJ" p147)、再び前進を始める。騎兵の支援を受けた彼らは森の北東端に到着し、予備軍団の騎兵師団(ドープール)もこれに続いた。だが彼らが大砲を配置しようとした時、見晴らしのきく高地で待ち構えていたオーストリア側の大砲25門が火を噴き、フランス側の大砲のいくつかが破壊され砲兵と騎兵が負傷した。
 ジョミニ曰く、フランス軍は大砲の配置を終えるまで騎兵3個連隊を横隊に配置し、時間を稼ごうとした。だが彼らはオーストリア側の砲撃を受けて大きな損害を出した(p147)。それでもモンリシャールは左翼のロルジュ、右翼のヴァンダンムが戦列に着くまでこの地点で持ちこたえようとした。第9ユサール、第12猟騎兵、第11竜騎兵連隊などが砲撃に耐え、歩兵では第37、第109及び第84半旅団が冷静に対処した("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q" p260)。

 先頭を切ったモンリシャールに続き、オーストリア軍と戦うことになったのはロルジュ師団だった。彼らはシュトックアッハの北西、マールシュピューレンからモンリシャールらの後をついてクルムバッハへと移動。それまでモンリシャールと一緒に行動していたルクルブは、ロルジュの到着を見て彼らの下に赴き、彼らを森の北方にあるホイドルフ村へと向かわせた。メスキルヒ方面で戦うモンリシャール師団の左翼に展開してオーストリア軍の右翼を突くのが狙いだった。
 森を抜けたロルジュの兵に対し、オーストリア軍は12門の大砲で砲撃を浴びせてきた。フランス軍は第10軽歩兵と第38半旅団が展開し、その間に第67が森沿いに敵の右側面に向かった。第10軽の2個大隊は銃剣突撃を行って村を奪取したが、すぐオーストリア軍が奪回した。両軍が激しく争う中、フランス軍の左翼を突こうとしたオーストリア軍に対し、ロルジュは第38半旅団で対抗。この半旅団は7~8門の大砲による散弾砲撃にもかかわらずに前進し、村を奪ったのみならずそこから北方にある台地まで敵を追撃して敵の戦線を分断した。
 オーストリア軍はすぐ反撃し、台地だけでなく村も奪い返した。改めて第67半旅団が敵右翼へ向かい、再編した第38が再び突撃し、森を守るハンガリー擲弾兵を崩壊させた。最終的には第10軽の4個中隊が村の北方に位置する森を奪取し、オーストリア軍の反撃の芽を摘んだ(p264-266)。
 この間、クライは中央後方にいた予備の一部をホイドルフやタールフィンゲン方面に回していた("https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C" p15)。ジョミニによればローアドルフ高地にいた擲弾兵8個大隊がロルジュに対して送り込まれたという("https://books.google.co.jp/books?id=ML4AAAAAYAAJ" p150-51)。フェルディナント大公と彼の主力との間を分断させることを恐れた対応だったが、この行動は正面の敵に苦戦していたモンリシャールの負担を軽くすることにつながった。しかもほぼ同じタイミングでルクルブ軍団の3番目の師団であるヴァンダンム師団も戦場へと到着していた。彼らはメスキルヒへの攻撃に踏み切る。

 以下次回。
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