メスキルヒの戦い 1

 随分前になるが、フランス革命戦争の中でも特に大規模だった会戦について紹介したことがあった"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/48590730.html"。いずれもマイナーな会戦だが、その中でも特にマイナー扱いされているのが1800年のメスキルヒの戦いである。英語wikipedia"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Messkirch"の記述が簡単すぎるのを見ても、そのマイナーっぷりが分かるだろう。
 フランス語wikipedia"https://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_de_Moesskirch"はさらに酷く、かろうじてドイツ語wikipedia"https://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_bei_Me%C3%9Fkirch"がそこそこ長めに書いているくらいだ。おそらくドイツ語のナポレオニック関連サイトがこの戦いを紹介していた"http://www.napoleon-online.de/html/messkirch1800.html"ことが、いくらか詳細に書かれている理由だろう。
 もともとモローvsクライというマニアックな対戦であり、主役のボナパルトがいない。またホーエンリンデンやフルーリュスのような決定的な結果がもたらされたわけでもない。さらに言うなら、2日前のエンゲンとシュトックアッハの戦いからの流れを引き継ぎ、4日後のビベラッハの戦いへと至る一連の交戦の一角を占めるというという事実も、この戦いのクライマックス感を減らす要因になっているんだろう。
 当然ながら読みやすいものも見つからない。特に日本語は壊滅的で、私が翻訳したナポレオンによる解説"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/1800napo.html"が最も詳しかったりするから実に残念極まりない状況と言える。そして英語でも先のwikipediaをはじめ、読みやすいものは見つからない。一番役に立つのがThiersの英訳本("https://books.google.co.jp/books?id=-1y3c8c1Tk0C" p174-180)というのが実態である。
 両軍合わせて10万人に及ぶ大規模な戦闘であっても、マイナーであればこの程度しか顧みられることがないという悲しい実例がこのメスキルヒの戦いだ。ソースがないわけではない。例えばフランス語ではこちら"http://www.napoleon-series.org/research/bibliographic/c_RevuemilitaireIndex.html"にあるように、Revue d'histoireの1909年版"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121755q"に2回にわたってこの戦いの記事が掲載されている。
 ドイツ語文献だとOestreichische Militärische Zeitschriftの1836年版"https://books.google.co.jp/books?id=LD4BUluUgj8C"に、戦役全体を紹介する中の一部として短めではあるがこの戦いが紹介されている。またGeschichte des Feldzuges von 1800"https://books.google.co.jp/books?id=IxYPAQAAMAAJ"にもメスキルヒの戦いについてシンプルにまとめた記述がある。
 さらにこちら"https://books.google.co.jp/books?id=xbsNAQAAMAAJ"ではMoeskirchの項目に、5月6日付で書かれたウィリアム・ウィッカムの報告書が掲載されている。内容的にはかなりシンプルで詳細な経緯はあまり分からないが、リアルタイム性の高い史料として参照はできるだろう。
 最後にメスキルヒの戦いについて参照できる地図をいくつか。まずはwikipediaに使われている地図"https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Schlacht_bei_Me%C3%9Fkirch_Karte.JPG"、そしてドイツ語のナポレオニックサイトで使われている地図"http://www.napoleon-online.de/Messkirch1800.jpg"あたりが使いやすいものだろう。どちらも割と簡潔な図になっているが、後者はそれなりに細かい情報も載っている。
 Die Kriege von 1792 bis 1815 in Europa und Aegypten"https://books.google.co.jp/books?id=kG9aAAAAcAAJ"という本にもメスキルヒの戦いについて地図が掲載されている(p302)。そしてこちら"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k65656562"には1800年のドイツ戦役について描いた地図集が存在する。うち後半部のCarte No 4.がメスキルヒ周辺の地形図で、Carte No 5.が両軍の配置を描いたものだ。以上でメスキルヒの戦いについて知るうえで必要最低限の史料にはなるだろう。

 というわけでメスキルヒの戦いについて紹介しよう。まずは前段としてこの戦いに至る経緯を簡単に紹介する。ボナパルトが政権を握った直後、1800年初頭の時点でフランスは第2次対仏大同盟との戦争中だった。ロシアが対仏戦から脱落したものの、引き続きオーストリアは戦争中。イタリアではポー平野を、ドイツではライン右岸をオーストリアが確保し、スイスのみがフランス側の拠点にとどまっていた。
 ボナパルトは当初、スイスを経由してドイツへ侵攻する計画を立てたが、これにはドイツ方面の軍指揮を任されたモローが反対した。まだ政権を取ったばかりで権力基盤が決して安定していなかったボナパルトはごり押しをせず、侵攻先をイタリアへ変更することにした。彼はディジョンで予備軍を編成させ、それをもってアルプスを越えてイタリアに進軍する計画を立案した。
 イタリアではジェノヴァにいたマセナがオーストリア軍の攻撃に対して抵抗していた。周囲を包囲されていた彼がいつまでも持ちこたえられるとは思われず、そのためには早急にアルプス越えをする必要があった。しかしアルプスを越えてイタリアで作戦を行うためには、予備軍の背後の安全が確保されなければならない。モロー率いるドイツ方面軍が早急にスイスからドイツへと進行し、南ドイツに展開するクライ将軍のオーストリア軍をできるだけスイスから遠ざける必要がある。
 当初、ミラノの北方にあるサン=ゴッタルド峠を経由してイタリアへ攻め込むつもりだったボナパルトが、時とともに越える峠を西へとシフトし、最終的にグラン=サン=ベルナール峠までシフトした"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49482040.html"のも、この背後に対する不安があったためだ。4月27日付のベルティエへの手紙で「モロー将軍が敵に対して大きな優位を得たときにのみ、この(サン=ゴッタルド峠を越える)作戦は可能だと見ている」("https://books.google.co.jp/books?id=F2guAAAAMAAJ" p240)と言及していることからも、それが分かる。
 ジェノヴァで追い詰められるマセナと、遅々として準備が進まないモローの状況の両方を睨みながら、ボナパルトは越えるべき峠を見定めようとしていた。実際にはモローによるライン渡河攻撃はようやく4月下旬になって始まる。モローによる「背後の安全確保」が十分展開されるのを待つ時間はなくなり、ボナパルトは最も安全だが最もミラノから遠いサン=ベルナール越えを採用した。

 ボナパルトが考えていたドイツ侵攻は、事実上の属国であるスイスのシャフハウゼンに主力を集め、ここからオーストリア軍の左側面を回り込むというものだった"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/51862429.html"。だがモローはこの作戦に反対。彼の参謀長だったデソルがパリを訪れてボナパルトと話し合い"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49236082.html"、モローの計画をボナパルトが受け入れる形で両者が妥協した。
 モローは軍を4つに分け、それぞれが別々の場所でラインを渡河するようにした"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/35566881.html"。ボナパルトが想定したシャフハウゼン付近での渡河を担ったのは右翼のルクルブのみだが、結果的にはこの部隊が最も重要な役割を果たすことになる。彼らは5月1日にラインを渡って前進を開始。バーゼルでライン右岸に進出済みだったモロー直率の予備軍団もルクルブと歩調を合わせるべく東へ進んできた。だがさらに遠いブリザッハでラインを渡ったサン=シールの中央軍団はまだ十分に接近しておらず、戦役開始時にケールで活動していたサント=シュザンヌの左翼軍団は遥か遠くにいた。
 5月3日、フランス軍の動きに呼応してエンゲンに主力を集めたクライに対し、モローは予備軍団で攻撃をしかけた。この方面での戦闘は均衡していたが、同じ日にルクルブの右翼軍団(1個旅団除く)がシュトックアッハのロートリンゲン公に対して行った攻撃は大成功を収めた。兵力で劣っていたロートリンゲン公は多大な損害を出して退却。BodartのMilitär-historisches Kriegs-Lexikon"https://archive.org/details/bub_gb_Eo4DAAAAYAAJ"によると両軍とも死傷者は約3000人で、加えてオーストリア軍は捕虜4000人を失った。

 以下次回。
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