宋戦国時代の詳細 下

 承前。「宋戦国時代」の最後を飾るのはモンゴル・南宋戦争"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%85%83%E6%88%98%E4%BA%89"だ。この戦争は大きく1235~41年、1253~59年、1268~79年の3次に分かれるとされている。それぞれオゴデイ、モンケ、クビライがハーンとなっていた時代に行われた戦争であり、最終的に南宋の滅亡によって唐末以後長きにわたった中国の分裂は終わった。
 単純に足し合わせるなら1235~79の45年間のうち26年間は戦争だったということになるが、wikipediaをよく見るとそれぞれの戦役対象外となっている年にも戦闘が行われていたことが分かる(例えば1244年の寿春の戦い、1264年の虎嘯山の戦いなど)。要するにここで言う第1次、第2次といった区分けはあくまでモンゴルによる本格的な侵攻作戦を意味しているのであり、それ以外の時期に戦争がなかったわけではないと考えた方がよさそうだ。むしろ英語wikipedia"https://en.wikipedia.org/wiki/Mongol_conquest_of_the_Song_dynasty"のように第1期(1235~48年)、第2期(1251~60年)、第3期(1260~76年)というように分けた方がいいかもしれない。
 「宋戦国時代」でも最も切れ目なく激しい戦争が繰り広げられたこの時期に、火薬兵器の発展は1つの頂点を迎えた。金が最初に使った鉄火砲が宋軍の兵器の中にも登場し、散弾を撃ち出す兵器だと思われる突火槍"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54491492.html"もこの時期に南宋で生まれたとされている。両軍最大の戦いといえる襄陽・樊城の戦い"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E6%A8%8A%E4%B9%8B%E6%88%98"でも火槍や火砲が存在したという記録がある。火薬を使い切った後の火槍を使って戦ったという記録もある。
 そして最古の銃砲と見られるものも、この時期まで遡る可能性がある。こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55911279.html"で紹介した「直元」銃が至元の年号だとすればその製造年は1271年。南宋とモンゴルが最後の死闘を繰り広げていた時期だ。たとえこの時期に誕生していなかったとしても、その直後には銃砲が生まれていたのはおそらく確かだ。1280年代のものと思われる黒竜江省の銃"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54491492.html"、あるいはパスパ文字で「元大徳二年」と書かれた1298年の銃などの存在が根拠となる。

 整理しよう。最初に火箭と毬という開放型火薬兵器が生まれたのは、火薬が兵器として使われ始めた五代十国末期から北宋と遼の(及び北宋とタングート族の)交戦状態が収まる澶淵の盟(1005年)までの間だ。その後、遼との戦争は同国が滅亡する寸前まで行われないし、断続的に行われた西夏との戦争も戦った期間より平和だった期間の方がずっと長かった。この時期、戦国PDCAサイクルはほぼ止まっていたように見える。
 次に武器の進化が起きたのは靖康の変から紹興の和議までの足掛け17年に及ぶ戦乱期だ。北宋滅亡という大事件があったこの時期には火槍が生まれ、火薬兵器の利用が一気に一般化していった。ただし12世紀半ば以降になると南宋と金の間もどちらかと言えば平和が保たれる時期の方が長くなり、再び戦国PDCAは回転を止める。
 次に戦争が加速するのはモンゴル建国があった13世紀以降。もちろん火薬兵器も再び発展を始め、まずは金と南宋との戦いで鉄火砲が、金とモンゴルとの戦いで震天雷と飛火槍が生まれた。そして最後のモンゴル・南宋戦争では突火槍が生まれ、そしてもしかしたら最古の銃砲が始めてこの地上に姿を現した可能性がある。13世紀の中国は日常的に戦争が続いており、特に金滅亡前後から南宋滅亡までの期間は基本的に休むことなく戦争が続いていたと考えられる。戦国PDCAもさぞや勢いよく回転したことだろう。
 つまり「宋戦国時代」といってもコンスタントに戦争が続いていたのではなく、平和が長続きした時期と激しい戦争が続いた時期とが交互に訪れたと見た方がいいようなのだ。火薬兵器は戦争の時期に発展し、平和の時期にその技術が停滞する。中国における火薬兵器の進化はこうした流れに従っていたように見えるし、おそらく同じ傾向は西欧でも見られたことだろう。経験科学が発展し、武器の世界でも研究開発が当たり前になる19世紀までは。

 そして南宋滅亡から元末の1348年まで、中国では「戦国時代」そのものが終わってしまう。1348以降は明の統一まで20年にわたって一種の戦国時代が復活するが、これが終わった後はむしろ平和の方がデフォルトの時代がやってくる。大帝国の支配という長い歴史を持っている中国は、統一より分裂が常態だった西欧とは異なり、戦国PDCAを回すことができる情勢がいつまでも続くことはなかった。
 一方の欧州はどうだったか。これまたwikipediaなので細かい数字は当てにしない方がいいのだが、こちら"https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_wars_1000%E2%80%931499"に載っている「戦争リスト」が参考になるかもしれない。「戦争」といいつつワット・タイラーの乱のような農民反乱や貴族同士の抗争レベルのものまで採録されているリストであるが、どの程度、争いが日常的であったかを知るよすがにはなる。
 それによると西欧地域(英仏独伊)とその諸国が参加した「戦争」は、火薬が西欧に伝わったことがはっきりしている1326年から西欧の火薬兵器が中国を明白に上回ったと見られる1480年までの期間に、計56回発生したことになっている。百年戦争やフス戦争といった大掛かりなものも含んでいるが、百年戦争の一幕に相当する「ブルターニュ継承戦争」"https://en.wikipedia.org/wiki/War_of_the_Breton_Succession"などは省いている。
 それに対し、中華帝国(元あるいは明)がこの時期に行った戦争は12回しかない。西欧で起きた戦争の僅か5分の1強だ。もちろん英語サイトということで、英語圏の情報が幅広く取り上げられている傾向はあるだろうが、それでもこれだけ一方的な差がついているということは、「西欧戦国時代」と中国の平和な統一国家との違いを示していると言えそうだ。
 戦争の数だけでなく、その期間も実に絶え間なく続いていたことが分かる。リストを見る限り、この150年強の間に西欧で「戦争」がなかったのは1329~30年の間だけ。百年戦争"https://en.wikipedia.org/wiki/Hundred_Years%27_War"中の平和だった期間を計算に入れても1361年が追加される程度で、ほぼ常に西欧諸国のどこかで、あるいは誰かが戦争状態に置かれていたと考えても間違いではない。
 この絶え間ない戦争は、絶え間ない火薬兵器の発達につながった。中国では存在しなかった鍛鉄製の銃砲が登場し、中国基準で言えば超大型と呼べる巨大な大砲が生まれ、その対極としてより扱いやすいハンドガンが進歩し、砲耳や砲架によって大砲がより扱いやすくなり、鋳鉄製の弾丸が一般化して大砲が扱いやすいサイズになり、マッチロックという簡便な発火手段が発明された。中国が強いられたより幅広い試行錯誤をせずに銃砲を手に入れたという強みが西欧にあったのは確かだが、その銃砲を洗練させる速度では西欧がはるかに優れていたのもまた事実だろう。
 絶え間ない戦争と、国家だけでなく民間まで含めた多数の開発拠点の存在によって、戦国PDCAサイクルを高速回転させた西欧。基本的に統一国家の下でまとまるという歴史的経験ゆえに、限られた戦争の機会においてのみサイクルが回った中国。両地域における戦争のリストを比較すると、そうした傾向が浮かび上がってくる。
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