宋戦国時代の詳細 上

 以前、Andradeが唱えた「宋戦国時代」という概念を紹介したことがある"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55835915.html"。互いに相争う複数の国家が長期にわたって存続している時代を戦国時代というのなら、北宋から南宋の時代も、あるいは近代初期以降の欧州もその条件に当てはまるという考えだ。Hoffmanのいうトーナメントモデル"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56266742.html"が成り立ちやすい社会とでもいうべきか。
 確かに「宋戦国時代」には北宋―南宋、遼、西夏、金、モンゴルといった諸国がそれなりに長く存続しながら争いを続けた。ただし、よく調べてみると、争いの「強度」は国ごとに必ずしも同じではなかったことも分かる。ほとんど争わなかった国もあるし、逆にほぼ常に戦争状態が続いていた国もある。だとすれば、国によってPDCAサイクルの働き方に違いがあった可能性も存在するのではないだろうか。
 もちろん、あまり細かい事象を追いすぎるとノイズをシグナルと見間違える懸念もある。この国はほとんど戦わなかったから火器の発達が限定的だったと安易な結論に飛びつくと、結果的に誤りだったというオチが待っているかもしれない。だが大づかみで戦争の「強度」がどうだったかを調べ、それと火薬兵器の進歩とを比較すること自体は意味のないことではなかろう。

 具体的には宋を中心に見ることにする。参照するのは主に中文wikipediaだ。もちろんwikipediaなので細かい年号などは当てにしない方がいいのだが、傾向を見ることくらいはできるだろう。まずは北宋と遼との関係をこちら"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BD%E6%9C%9D"を参考にしながら追ってみる。
 北宋が成立した960年以降の関係を見ると、まずは979年と986年にそれぞれ宋による北伐が行われたとある。実際にはこのうち前者は十国の生き残りである北漢遠征が主眼で、その際に遼も戦争に加わったらしい。さらに英語wikipedia"https://en.wikipedia.org/wiki/Liao_dynasty"を見るとその前の976年にも同様の遠征が行われた。
 しかし両国にとってより決定的だったのは1004~05年の戦争で、ここで敗北した北宋は遼に貢納を行う約束(澶淵の盟"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%B6%E6%B8%8A%E4%B9%8B%E7%9B%9F")を結ぶことでどうにか平和を得た。外見的には厳しい取り決めだったように見えるが、この盟の効果は絶大なもので、その後も条件を変えながら両国間では実に100年以上もの平和が続いた。「戦国時代」と呼ぶのが憚られそうな状態だ。
 この時期、火薬兵器の分野ではまず970年に火箭が、1000年に「火球」や「火蒺藜」が登場している"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55968007.html"。北宋と遼がきちんと戦争状態にあった時に、後の武經總要に登場する「火箭」と「毬」という2種類の兵器"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56238179.html"が既に生まれていたことが確認できるわけで、戦国PDCAが働いていたことを示す一例と言えるだろう。
 次に両国が戦ったのは北宋と金が海上の盟"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E4%B9%8B%E7%9B%9F"を結んだ後。双方が合意したのはwikipediaによれば1120年となっており、そこから遼が滅亡する1125年までが両国の戦争期間と言えるかもしれない。要するに北宋と遼はその期間の大半を通じて互いに平和に暮らしていたわけで、少なくとも両者間で戦国PDCAは回らなくなっていただろう。

 次に北宋と西夏"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%8F"だ。まず西夏建国前、984年からタングート族の一部と北宋の間では戦闘状態が続いていた。しかし澶淵の盟が結ばれたのと同じ頃にタングート族は代替わりをきっかけに北宋と遼の両方に属する状態に移った。つまり「宋戦国時代」のうち11世紀前半は実際には戦争などない平和な時代だったことになる。
 タングートと北宋の対立が再び表面化したのは1138年の西夏建国頃から。以後、この両国は前後5回にわたって戦争を行っている"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%A4%8F%E6%88%98%E4%BA%89"。うち1回目は主に1040~42年、2回目は1064年で、以後1081~82年、1096~99年、1114~19年にも戦火を交えている。一方で1044年には慶暦和議"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%92%8C%E7%B4%84"が結ばれるなど、明白に平和が維持されていた時期もあった。
 この時期の火薬兵器に目を向けると、1044年に成立した武經總要"http://www.cos.url.tw/book/4/O-1-040.htm"が注目点だ。澶淵の盟以来続いていた平和が敗れたことを受け、改めて軍事についての関心が盛り上がったことが、この本がまとめられた背景にあったのかもしれない。ただしこの本に登場する火薬兵器は火箭、毬と火薬を使った猛火油櫃のみ。武經總要以外の史料には火薬などの情報秘匿を命じた記録がある程度で、要するに目新しい火薬兵器は登場していない。
 宋夏が戦争をしていた期間は長くて6年ほど、それに対して平和が続いた期間は十数年から二十数年となっている。特に西夏建国前は30年以上にわたって平和が持続していたことになり、要するに北宋では澶淵の盟以前の短い時期を除き、戦国PDCAが十分に回っていたとは言えない可能性がある。どうやら北宋期の「宋戦国時代」は、火箭と毬という開放型火薬兵器"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55914672.html"を生み出しただけで終わったようだ。

 澶淵の盟以降、ほとんど止まっていた戦国PDCAサイクルが再び回り始めたのは1125~27年の靖康の変"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%BA%B7%E4%B9%8B%E5%8F%98"である。北宋と金の間で始まったこの戦争は、途中で南宋と金の戦争に代わり、1141年の紹興の和議"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B9%E8%88%88%E5%92%8C%E8%AD%B0"まで続いた。北宋成立以来、これほど長期にわたって継続的に戦争が続いた例はない。
 そしてこの長い戦闘に歩調を合わせるように火薬兵器の発達も再び加速した。靖康の変で火箭や霹靂砲が使われたことが分かるし、火砲という名前でおそらく投石機が毬を放出する使用例が史料上に次々に現れるようになった。そして1132年、徳安城の戦いで始めて「火槍」が姿を見せる"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55857317.html"。PDCAサイクルが再び回り出した中で、新たにより効果的な兵器を求める動きが強まり、この新発明につながったのだろう。
 だが有名な岳飛の死などを代償に得た南宋と金の平和は、これまた割と安定した平和な時代をもたらす。次に両国が戦争に踏み切ったのは1161~65年"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E5%85%B4%E5%8C%97%E4%BC%90"。金の海陵王による中華統一の野望から始まった戦争は、不満を持った部下に彼が殺された結果として両軍の小競り合いへと変わり、最終的に隆興の和議"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E8%88%88%E5%92%8C%E8%AD%B0"で終結した。次に戦乱が来るのは13世紀になるわけで、12世紀後半の「宋戦国時代」も、実はかなり平和だったことが分かる。
 この戦争の転換点になったとされる采石の戦い"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Caishi"では霹靂砲が使われたことが記録に残っている。他に同時期に火箭、火砲についての記録もあるほか、如意戦車と火石砲についてもこの時期の記述に現れる。如意戦車や火石砲がどれだけ目新しいかについては議論のあるところだろうが、少なくとも火薬兵器の使用がごく一般的になってきた様子は窺える。
 13世紀に入り宋金戦争"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E9%87%91%E6%88%98%E4%BA%89"も再び激化する。1206~08年の開禧北伐"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E7%A6%A7%E5%8C%97%E4%BC%90"は1208年の嘉定和議"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%AE%9A%E5%92%8C%E8%AE%AE"で終わったが、1216~24年にはモンゴルによって南に押された金が南宋侵攻をたくらんだ。そして1233~34年には南宋がモンゴルと手を組んで金を滅ぼしている。
 開禧北伐では火薬箭や霹靂火砲の文言が再び出てくるほか、続く金の南進でも火箭、蒺藜火砲、火槍が使われている。そして後者ではさらに新しい兵器「鉄火砲」"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55908741.html"も姿を見せた。さらに金とモンゴルとの戦争においては1332年に震天雷と飛火槍の使用にも言及されている。戦争が長引くか、もしくは高い頻度で行われるようになれば、それだけ火薬兵器の発展と新兵器の登場につながりやすいという傾向が宋金戦争の時代でも見て取れるのではないだろうか。

 以下次回。
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