行動経済学

 マイケル・ルイスの「かくて行動経済学は生まれり」"http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163906836"読了。読んで凄くとっ散らかった印象を受けた。といってもこれは著者が悪いわけではなく、読者であるこちらの問題。2人の学者に関するノンフィクションに行動経済学についての説明を求める方がおかしいのであって、そういうものが読みたければ最初から系統立てて書かれた教科書を読めばいい。この本はそういう目的で書かれたものではない。
 人間は間違える存在だが、その間違え方に一定の法則性があることを解き明かしたのが彼らの功績だ。それによって、現実には存在しないような合理的経済人の存在を前提としていた経済学の在り方にまで見直しが進んだ。その彼らが統計学を武器にこの理論を組み立てていったのが興味深い。かつては数式こそ絶対だった経済学の世界でも、今では「理論から実証へのシフト」"http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20170716/Noahpinion_on_John_Rapley"が見られるそうで、その意味で彼らが切り開いた道こそ今や本道になりつつあるとも考えられる。

 経済学に影響を及ぼした彼らの理論は「ヒューリスティック」"https://en.wikipedia.org/wiki/Heuristic"として説明されている。それがもたらす認識上の誤りを認知バイアスと呼ぶが、その種類はやたらと多い"https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_cognitive_biases"。個人的にはもう少し整理してもらいたいところだが、それはそれとして今回はバイアスの一種、保有効果"https://en.wikipedia.org/wiki/Endowment_effect"の話をしよう。
 ルイスはNBAチームでGMを務めている人物の話を本の冒頭に紹介している。その中に、同チームに所属する選手を巡るトレード話が出てくる。彼らは当初、その選手をトレードすることに乗り気でなかったが、改めて分析すると「自分たちのチームに所属しているという事実が、彼についての判断を歪めていた」(p42)ことに気づいた。自分が保有するものについて、その正当な価値より高く評価してしまう「保有効果」に捕らわれていたわけだ。
 同じケースはもちろんNBA以外でも見られる。その一例になると思われるのが、Over The CapがまとめているRoster Turnover("https://overthecap.com/roster-turnover-2017-number-32-21/"など)である。2016シーズンに比べて17シーズンのロースターがどの程度入れ替わっているかをチームごとにまとめたものだが、その中に保有効果を想定できるデータが掲載されている。
 チーム別の表を見ると最初に載っているのがSnaps Lost。これは16シーズンの当該チーム全スナップにおいてプレイに参加した選手を調べ、彼らのうち何%が17シーズンにはチームを去っているかをまとめたものだ。ChiefsやSteelersなどの数値が極めて少ない、つまり彼らの選手の入れ替わりが少ないのに対し、49ersやBillsでは全スナップの3分の1以上がチームを去っていることが分かる。
 しかしこの数字を単独で見ても保有効果は分からない。もう一つの数値、即ちQuality Snaps Lostと比較することでこの効果が浮かび上がってくる。この数値は失われたスナップ数のうち、実際に他チームのロースターに名を連ねた者、即ち市場で値段がついて売れた者のみを数えたものである。ということは、最初の数値との差は「チームから放出された後に他チームに拾われなかった選手」のスナップ数になるわけで、そうした選手たちは「保有チームからは高く評価されていたものの、実際の価値はそれより低かった者たち」となる。
 このデータで測ると「保有効果」が最も大きかったのはJetsだ。Snaps Lostが34.1%に達しているのに対し、Quality Snaps Lostはたったの5.4%。実際はその後にDavid HarrisがPatriotsに拾われているので後者の数字はもう少し高くなるが、最大でも22分の1つまり4.5%にしかならないため、24%以上のスナップ数が「保有効果」によるものであったことは間違いない。16シーズンのJetsは、スナップ数の約4分の1を他チームが欲しがらない選手たちで埋め合わせていたことになる。
 Jetsが今オフにベテランを容赦なく切っていったのはよく知られている。問題は切られたベテランたちが次の仕事先を見つけられないこと。チームがFA市場で評価されない選手たちを後生大事に抱えていたことが明らかになった格好だ。保有効果に惑わされ、本当はそれだけの価値がない選手に余計なサラリーを払っていたわけで、今オフの行動はタンキングというより「重荷を投げ捨てているだけ」というのがOver The Capの評価だ。
 彼らと真逆の立場にあるのがPatriotsだ"https://overthecap.com/roster-turnover-2017-number-20-11/"。見るとSnaps LostとQuality Snaps Lostが全く同じ15.8%。放出した選手は全員どこか他のチームに拾われたわけで、彼らが最も保有効果から縁遠い選択をしている様子が窺える。実際、Patriotsを去った無制限FAのうち半数以上は新チームでさらに高いサラリーを得ているわけで、彼らだけでなく他からも高い評価を得ている選手がいることが分かる。
 Patriotsと似た傾向にあるチームの1つがPanthers。だがここでは「保有効果」を否定するかのようにどんどんベテランを切り捨ててきたGMが、先日クビになった"http://www.nfl.com/news/story/0ap3000000820260/article/"。着任前年にはキャップスペースが瀕死状態にあったPanthersは彼の下でこの問題を解消し、加えてその4年の就任期間においてリーグで6番目に高い勝率を記録した。にもかかわらず彼が解雇されたあたり、その判断をしたオーナー側が「保有効果」の虜になっている可能性を示す。
 彼が行った保有効果の無視は、おそらくオーナーの目に「Patriotsレベルの冷酷さとは言わないまでも、長期にわたってチームを助けるための厳しい選択をするのに十分な冷酷さ」"http://www.thedrawplay.com/comic/david-gettleman-gets-let-go/"と映ったのだろう。もちろんこのオーナーは、ルイスが描いた2人の学者が見抜いたように、非合理的な判断をしている。だがこうしたヒューリスティックはおそらく人間に生来備わっているものであり、そこから完全に逃れることは難しい。

 他にも人間には様々なヒューリスティックがある。もしAIに何らかの効用があるとしたら、それはAIがヒューリスティックに捕らわれない判断をする部分かもしれない。ただしヒューリスティックが働きやすい局面というのは、何が最適解なのかが分かりにくい場面でもある。AIであれ何であれ、最適解を導くにはそれを得るためのデータを与える必要があるが、そもそも手元にあるデータが最適解を得るのに適当なデータである保証はない。
 これまたルイスの本ではNBAでの実例が紹介されている。大学時代のデータを集めても選手の活躍を完全に予想することはできない。そのためGMは色々と苦労して、例えば最初の2歩のすばやさといったデータまで集め始めるようになった。こうしたデータはどこかに転がっているものではなく、意図的に手に入れようとしなければならないものだ。でもそのデータが役に立つという保証がない状態で、どうやって手に入れるべきデータを決めればいいのだろうか。
 囲碁将棋といった明白なルールの決まった状況であれば、AIを使って最適解を手に入れるためのデータを見つけ出すこともできなくはないだろう。実際にはそれでさえ人間のヒューリスティックで見つけることはできず、機械学習というアルゴリズムを活用する必要があったのだが、機械学習を進めるうえで必要なデータが何であるかを考えるところから始める必要はおそらくなかった。でもAIをもっと実際的に役立つものにしたければ、その際には「必要なデータは何であり、それはどうやって手に入れるのか」という問題が立ちはだかってきそうな気がする。
 というわけで、ヒューリスティックに関する知識が増えたからと言って人間が今すぐヒューリスティックから自由になれるとは思えない。たとえAIの発展が期待されるとしても、では全ての判断をAIに任せた方が人間よりましだと確実に言えるようになるには、まだ乗り越えなければならない問題がありそう。もちろんそれでも我々が前に進んでいるのは確かなんだろうが、前途はまだ茫漠たるものだ。
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コメント

No title

昔のロゴででています
いつもながら面白く拝読しました。
『重箱の隅』的な感想で恐縮ですが、あのPatsから放出された選手だからという、バイアスも多少はあるのではないでしょうか?
Pats/Belichickブランドなら大丈夫じゃない??と言う「近似ショートカット」が働いて・・・どうでしょう?

No title

desaixjp
コメントありがとうございます。
具体的なデータがあるわけではないのですが、ご指摘のような面は確かにあると思います。
一方でPatsの獲得する選手の方は、優勝してリングを手に入れたいという目的から比較的安く契約する人もいるようです(Revisなど)。
一度「強豪」という評価を手に入れればチーム作りにまで利益が及ぶのだとすれば、実においしい(他チームにとっては不公平な)話ではあります。
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