大分岐はいつ?

 大分岐"https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Divergence"は1800年ではなかった。と言っても昔から言われている1500年前後でもなく、それが始まったのは18世紀前半(1700~50年)だった、という話がこちら"http://www.nikkei.com/article/DGXMZO18206570Y7A620C1000000/"に紹介されている。
 この記事の元になった論文はこちら"https://www.economics.ox.ac.uk/materials/papers/15109/155aprilbroadberry.pdf"。大半は北宋、明、清代の中国GDP推計について書かれているもので、どんなデータに基づいてどのように推測したのかを長々と説明しているだけだから、読んでもあまり面白くはないと思う。面白いのは結論部分だ。
 GDPの推計に際しては一次産業(農業)、二次産業(鉱業、食品加工、繊維その他、建設)、三次産業(サービス分野)についてそれぞれ推計値を出し、それを組み合わせることで最終的な数値を提示している。この論文が算出した1人当たりGDPの推移はp41のFigure 10で確認できるが、特徴的なのは北宋期から清初期までほぼ横ばいが続いていること、それが18世紀(清代前半)に入って急落していることだ。
 実質GDPそのものはどの王朝でも右肩上がりが続いている(p42のFigure 12)。だが一方で人口も右肩上がりで上昇している。こちら"http://www.lse.ac.uk/economicHistory/workingPapers/2015/WP219.pdf"によると北宋と清は中国の歴史でも人口が急増した時期として知られており、特に清代の人口は年率1.5%と北宋期(1.07%)より高い水準で人口増が続いた(p1)。つまり、清代は人口増がGDPの増加を上回るペースで進んだのである。
 では欧州やアジアの他地域(日本)はどうだったか。最初の論文のp48にはこれらの地域のGDP推計値が載っているが、見れば分かるように少なくとも1300年にはイタリアが中国を上回り、1400年にはオランダも、そして1450年にはイングランドも明白に中国を超えている。1500年と言われる昔ながらの「分岐」よりも前から欧州は中国を上回っていたという指摘だ。
 とはいえ中国はやたらと広く、一方オランダなどは極めて狭い。欧州でも最も発展していた地域と中国全体を比較するのは公平ではないだろう。というわけでこの論文では、中国で最も発展していた揚子江デルタの1人当たりGDP推計も行っている。1820年時点で揚子江デルタは中国全体より75%も高い1人当たりGDPを達成していたので、この数値を推計揚子江デルタGDPの上限値に設定している。下限値も含めてそのデータはp49のFigure 13にある。
 同じグラフには欧州で最も発展した地域(1540年まではイタリア、そこから1800年まではオランダで、それ以降はイングランド)の数値も載っている。見れば分かるように14世紀から1700年頃まで両者は似たような水準で競り合っていたが、18世紀の前半に欧州は上昇、中国は下降した結果、まさに「大分岐」が生じることになった。これは産業革命が始まった18世紀後半より前の話だ。

 確かに清代に人口急増があり、そのペースに経済が追いついていなかったという主張は広く見られる。Cliodynamics関連の論文にも、例えばこちら"https://escholarship.org/uc/item/79t737gt"では清代中国を「古典的なマルサスの罠」の実例として紹介している(p277)。150年間にGDPが3倍になった一方で人口は4倍になったというのがその主張だ。こちら"http://cliodynamics.ru/download/Korotayev_Secular_Cycles_Chapter2.pdf"でも同様に人口増とそれに伴う生活水準の低下があったとしている。
 なぜ人口がここまで急増したのか。上にも紹介したこちら"http://www.lse.ac.uk/economicHistory/workingPapers/2015/WP219.pdf"の論文では数量的な分析により、稲作の収量増やトウモロコシに代表される新しい作物の栽培を通じた単位面積当たりの収穫拡大が最も寄与した要因であり、その他に耕作地の拡大と貧民救済もシナジー効果をもたらしたと結論づけている。ただこの説明だと人口増の背景は分かるが、生活水準低下を招いてもなお人口増が続いた理由は分からない。
 考えられるとしたら清代のGDP拡大がその大半を農業に依存していたことが影響したのかもしれない。市場経済を中心とした発展であれば、1人当たりGDPの減少は実質賃金の低下などを通じてすぐ把握できるし、それが人口再生産のペースを遅らせたかもしれない。だが清代の中国では穀物がGDPに占める比率が4割強あったのに対し、市場に出回る分は5%前後にすぎず、食糧を自家消費している農民にとっては生活水準の低下が分かりにくかったのかもしれない。

 大分岐をもたらしたもう一方の要因は欧州における1人当たりGDPの増加だ。こちら"http://www.econ.cam.ac.uk/people/faculty/sco2/publications"に載っているThe European Economy in the Eighteenth Centuryによると、その背景には、まずノーフォーク農法に代表される農業革命(単位収量の増加)、それによって農業分野で不要になった労働力の二次産業への流入などがあるそうだ。そしてそうした変化をもたらしたのがいわゆる勤勉革命"https://en.wikipedia.org/wiki/Industrious_Revolution"だ。
 元は日本の江戸時代に農村部で生じた生産革命を示す言葉だが、欧州でもこの概念を分析の枠組みとして使う向きがある"http://old.econ.ucdavis.edu/faculty/gclark/210a/readings/de%20Vries%20industrious.pdf"。産業革命が生産側における現象に注目しているのに対し、勤勉革命はそれに先行した需要側の変化に着目している。家庭内におけるリソース配分を変えることで市場向けの品物の生産が増えると同時に、市場から供給される品物への需要が高まった。その需要があったからこそ後に続く産業革命による供給増が生じたとの見方だろう。
 ここで重要なのは制度的要因だそうだ(The European economy in the eighteenth century p108など)。封建的な特権といった制度のくびきが存在する限りノーフォーク農法は採用できないし、ギルドの独占といった制度的な制約要因がなくなって初めて勤勉革命によるリソース配分変更へのインセンティブが働くようになる。技術そのものは新しくないが、それを活用したいと思わせる環境が整ったことが、勤勉革命をもたらした要因というわけだ。
 最初の論文の結論部分で「大分岐は、石炭や新世界の土地といった要因の結果として突如として生じたものではなく、より深い制度的な根っこがあることを示唆している」(p34)と書かれているのも、おそらくは勤勉革命が頭にあるからだろう。勤勉革命の時点で欧州が中国先進地域を引き離していた(そして1800年以降は日本が中国を抜いた、p48)のだとしたら、産業革命の要因となった石炭よりもそちらを重視すべきだ、という議論だろう。
 この主張の妥当性については判断できないが、せっかくなので違う見方をしてみよう。制度的要因とは要するに制度を変えられたか否かであり、オランダやイングランドが制度を変えられたのに対し中国が変えられなかったのは、単に後者が大きすぎただけ、という考えもできるのではなかろうか。制度があればその制度に基づく既得権益が生まれる。小さな政治体制なら既得権益を持つ人の数は少ないだろうし、制度変更も容易だろう。でも巨大な帝国ともなれば既得権益を変えるために必要なエネルギーはけた違いに大きくなる。人口3000万人の日本では可能でも、4億5000万人もいた清では不可能なこと。それが勤勉革命に必要な「制度の変更」だったと考えることはできないだろうか。
 あるいは火器と同様、数の多さによる試行錯誤のしやすさが勤勉革命をもたらしたとも考えられる。欧州はオランダやイングランドという小さな単位で実験ができた。日本では各藩が取り組んだ改革の中に、各種の特産品づくりがあった。しかし中央集権的な中国では、そうした小さい単位での制度改革を通じた試行錯誤が難しかった、という理屈も成り立ちそうだ。

 それにしてもこのデータを見ると、中国史の中でも清代が特殊な時代だった様子が窺える。こちら"https://wisdom.nec.com/ja/business/2017062001/index.html"によると、古い中国が東アジアの周辺諸国に存在しているのに対し「清朝のものは中国大陸にある」という言い方が中国にあるそうだ。もしかしたら清代とは、それだけ大きな変化と過去との断絶を中国にもたらしたのかもしれない。
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