デケヴィリの"The Campaigns of the Royalist Army under the Duke de Conde"の第2巻と第3巻を読了。第1巻が1795年までの状況を、2巻は1800年まで、3巻はそこからコンデ公部隊が解散する1801年までの推移を描いている。
エミグレが作った反革命部隊はいくつもあったが、長く残ったのはコンデ公の部隊だけだった。エミグレ部隊は1792年戦役では連合軍の後方からついていくだけであり、彼らの楽観的過ぎる戦役見通しはChuquetなどにも手厳しく描写されている。93年にはヴルムゼル麾下のオーストリア軍に同行し、ヴィサンブール線での戦闘にかなり深く関わった。デケヴィリはヴルムゼルを嫌っていたらしく、第1巻では彼に対する批判が目立つ。
94年以降、コンデ公の部隊は主にライン上流から南ドイツで戦いを続ける。96年戦役ではドイツにいる連合軍の最左翼に所属してフレーリヒやフュルステンベルクなどの下で戦ったようだ。このうち後者についてデケヴィリは「過去、現在、そして未来の将軍たちの中で最も断固とした略奪者」(d'Ecquevilly, Volume 2 p34)だと指摘している。
レオーベンの和約によってオーストリアとフランスの戦争状態が終わると、彼らの立場は苦しいものになった。大陸で対仏戦争を続けている国がなくなってしまったのだ。そこでコンデ公は手を差し伸べてきたロシアのパーヴェル1世に頼って部隊をロシア軍麾下に移した。部隊はヴォルヒニア(少し前までポーランド領だったがこの時はロシア領)へ移動し、そこで新たな制服や軍旗を支給されている。デケヴィリらがスヴォーロフとの接点を持ったのはロシア軍に入っていたこの時期である。
彼らがロシア領内にいたのは1798年から99年まで。第二次対仏大同盟が結成された99年には再びドイツへと移動を始めた。だが、この移動にはかなり時間がかかり、コンデ公の部隊がコンスタンス湖沿いに部隊を展開した時には同年戦役も終わりかけており、第二次チューリヒの戦いにおけるロシア軍の敗北前後にいくつか小競り合いを行っただけにとどまった。1800年、ロシアが対仏戦争から部隊を引き上げる決断をするとコンデ公は部隊を再び英国麾下に移して戦闘を継続しようとする。
1800年戦役で彼らは当初、イタリア方面での戦闘を予定していた。だが、イタリアに移動している途中で部隊はドイツへ引き返すよう命じられる。彼らがそのままイタリアへ向かっていればボナパルトによるマレンゴ戦役に巻き込まれていた可能性もあり、その結果歴史上でも今より知名度を上げることができたかもしれないが、その可能性はなくなった。
結局ドイツで戦ったコンデ公の部隊だが、これも非常に中途半端な戦役参加にとどまった。あちこち移動している間に春季戦役は終了。冬季戦役では主戦場となったホーエンリンデンから遠く離れていたため、ほとんど戦闘らしい戦闘を経験しないまま終わったのである。
1801年、オーストリアが再びフランスとの講和を強いられると、英国はコンデ公の部隊を欧州以外(実はエジプト)で活用しようと試みる。この時期、フランスはボナパルトの政権下にあってエミグレの帰国を認める動きが強まっていた。結局、コンデ公は部隊を解散。大半は1年分の年金を貰って部隊を去り、ほんの一部だけが英国の指揮下にとどまって地中海へと向かったという。
デケヴィリは何人か著名人について言及している。ヨハン大公は「コンデ公とも馬が合いそう」(d'Ecquevilly, Volume 3 p18)だが、彼の参謀だったヴァイローテルについては「我々の評価によれば彼の悪意は明白だった」(d'Ecquevilly, Volume 3 p18)。他にもマレンゴでボナパルトと戦ったメラスや、英国の外交官で仏国内にいたスパイの元締めのような仕事をしていたウィッカムについても批判的な記述をしている。
さて、解散したコンデ公部隊の連中はどうしたのか。Nafzigerによれば「その兵力大半はオーストリア軍に吸収された」そうだが、一方で"A European Destiny: the Armee de Conde 1792-1801"を記したFrederic d'Agayによれば「ほとんど全ては亡命貴族名簿から名前が削除されるや否やフランスへ戻った」("The French Emigres in Europe and the Struggle against Revolution" p41)ことになる。どちらかが正解なのか、それとも亡命貴族たちはフランスへ戻り、彼らに雇われていた兵士たちがオーストリア軍に吸収されたということになるのか、そのあたりは不明。
部隊解散後もなお英国の支払いで対仏戦争を続けようとした連中は、Chasseurs Britanniquesという傭兵部隊となり、マルタやシチリアに駐屯したほか、エジプト、南イタリア、イベリア半島、南フランスで戦ったようだ。こちら"http://home.wanadoo.nl/g.vanuythoven/Chasseurs%20Britanniques.htm"によれば最後の方になると部隊の士官の大半は亡命貴族2世になっていたようだが、それでもなおブルボン王家のために戦い続けていたそうな。
こちら"http://www.cherylsawyer.com/history-Chase1.htm"にもChasseurs Britanniquesの話が書かれているが、それによれば彼らは1812年戦争(第二次米国独立戦争)にも参加したそうで、実に3つの大陸で戦闘を経験したことになる。最後の方になると亡命貴族以外にナポレオン政権に反対するフランスの共和主義者、ただの冒険者、犯罪者、逃亡兵などが入り乱れていたようで、雑種部隊と呼ばれるようになっていたとか。数奇な運命、というべきだろう。
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