ダンバー数の怪しさ

 中隊はしばしば「団結したグループとして安定した関係を築くのに適切な人数」であると言われる。その論拠となっているのがダンバー数"https://en.wikipedia.org/wiki/Dunbar%27s_number"。英国の人類学者ダンバーが提唱した概念で、およそ100~250人の範囲を超えるとグループを維持するうえでより制約的なルール、法などが必要いなるという。1人の人間が知り社会的な接点を持ちうる数の上限であり、一般にはよく150人という数が示される。
 ダンバーは狩猟採集社会を調べ、そのグループの規模が30~50人のバンド"https://en.wikipedia.org/wiki/Band_society"、100~200人の「文化的氏族」、そして500~2500人に及ぶ部族"https://en.wikipedia.org/wiki/Tribe"の3種類に分かれることを見出した。ダンバーはそのうち100~200人の枠に収まる事例として、新石器時代の農村の規模、フッター派の集団が分裂する上限の数字、そしてローマ時代の百人隊や近代の中隊companyがあると主張している。

 確かに現代の中隊はダンバー数に収まるものが多いようだ。英語wikipedia"https://en.wikipedia.org/wiki/Company_(military_unit)"によればcompanyの人数は80~250人とされており、ダンバー数に一致するように見える。ナポレオン戦争時代も同じ。こちら"http://www.napolun.com/mirror/napoleonistyka.atspace.com/infantry_tactics_4.htm"には各国別に大隊の規模と、それが何個中隊で構成されているかが書かれている。そこから算出した各国の中隊規模は以下の通りだ。

ロシア 100~150人
プロイセン 125~175人
オーストリア 108~183人
フランス(1808年以降) 75~133人
フランス(1808年以前) 50~111人
英国 45~100人

 国によってかなり違いがあるが、中心となっているのは100~150人の辺りである。また中隊は軍組織を管理運営するうえでも基本的な単位となっている。それを象徴するのが、尉官のことを英語でcompany officer"https://en.wikipedia.org/wiki/Junior_officer"とまとめて呼んでいることだろう。中隊という組織運営に当たる士官たちが、それだけで1つのまとまりとして認識されていることが分かる。ちなみに佐官field officer"https://en.wikipedia.org/wiki/Field_officer"は「中隊士官より上で将官general officer"https://en.wikipedia.org/wiki/General_officer"より下」という定義だ。

 だが中隊companyは昔から現代のような規模になったわけではない。その由来を探ると、少なくとも初期においてはダンバー数とは無関係の組織だったことが分かる。そもそも中隊という言葉の由来は中世の傭兵団を意味するfree company"https://en.wikipedia.org/wiki/Free_company"に遡る。この「自由な仲間たち」の一つであるWhite Company"https://en.wikipedia.org/wiki/White_Company"は、1361年の時点では騎兵3500騎、歩兵2000人を抱えていたが、1388年には250人しかいなかった。
 当時のcompanyには中隊という意味などなく、傭兵団全体を指す言葉として使用されていた。それが傭兵団をいくつかに分けた部隊の名称として使われるようになったのは、フランソワ1世"https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_I_of_France"の時代だと思われる。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=clAvAAAAMAAJ"によれば彼の統治初期にcompagneという言葉が「様々な兵科による部隊、そして時には数千人の集団で、指揮官の称号がcapitaineとなっている」(p457)ものの名称に充てられたとある。
 この「部隊」の中には、ランツクネヒトの一つだったSchwarze Garde"https://en.wikipedia.org/wiki/Black_Band_(landsknechts)"が含まれていた。ランツクネヒトには以前にも書いた通りFähnleinという組織があり、その指揮官はHauptmannあるいはKapitänと呼ばれていた"https://de.wikipedia.org/wiki/F%C3%A4hnlein"。この時、ドイツ語のFähnleinとフランス語のcompagnieが同じものとして結びついたのではないだろうか。
 ランツクネヒトの「中隊」は400~600人程度の規模だった。だからこの時点ではcompanyの意味が変わっても、その人数はなおダンバー数の埒外にとどまっていた。しかしこの数はその後、急激に減少していく。
 まずテルシオ"https://en.wikipedia.org/wiki/Tercio"だ。ランツクネヒトから少し遅れ、16~17世紀に活躍したテルシオは3000人で構成されていたが、その中はさらに各300人から成る10個中隊に分かれていたようだ("https://books.google.co.jp/books?id=h9x8AamdWAgC" p338)。この時点で「400~600人、多ければ1000人」いたランツクネヒトのFähnleinから人数が変化している。もしくは建前上の数字から実態に合わせるように変化したと見るべきかもしれない。
 次は軍事革命の立役者として名高いオラニエ公マウリッツ"https://en.wikipedia.org/wiki/Maurice,_Prince_of_Orange"だ。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=xf3pAgAAQBAJ"によると彼はまずランツクネヒトの伝統だった小隊(Rotten)の指揮官を兵たちが選ぶという慣習をやめさせ、上からの指揮を強化した。次に彼が手を付けたのが中隊の人数削減で、1574年から77年の間に300人以上という数を150人まで縮小した。火器を中心とした柔軟な戦術を実行するうえでは、小規模で士官の比率が高い部隊が望ましいと判断したのだそうだ(p40)。ここで初めてダンバー数に適合した数字が出てくる。
 この流れは他国にも広まった。17世紀のグスタフ=アドルフもまた、1個中隊を150人に組織化したという"https://www.britannica.com/topic/company-military-unit"。一部ではさらに中隊の規模を縮小するところもあり、17世紀半ばのイングランド内戦における中隊は100人規模まで小さくなっていたという"http://bcw-project.org/military/units"。おそらくこの17世紀になって、初めて中隊companyがダンバー数の範囲で固まったのだろう。

 要するに欧州の軍事組織において中隊が「団結したグループとして安定した関係を築くのに適切な人数」になったのは、companyと呼ばれる組織が生まれてからかなり時間を経た後の話なのだ。それ以前においては、必ずしもダンバー数に収まる単位の部隊が組織上重要な存在と見なされていたわけではない。また中隊人数を減らす改革に取り組んだマウリッツらがダンバー数を意識していたわけでもない。士官と兵の比率を変え、より柔軟な行動ができる単位にするという、あくまで軍事上の要請に応じた改革だった。
 それにダンバー数自体にも批判がある。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=1_k_BAAAQBAJ"では「西洋社会においては大人の90%は250人から1710人の人々を知っており、半数は400人から800人を知っている」(p260)と指摘。また多くの人類学者は150人という数よりも30~50人のバンドこそ狩猟採集社会で最も目立つ人数だとしている。
 西洋の軍事組織において150人前後という数が使い勝手のいいものであることは確かだろう。だからこそマウリッツの時代から現代にいたるまで、中隊の数に大きな変化が生じなかったと思われる。だがそれが自然発生的なものだとは言えないし、またその数がダンバー数に由来するとの証拠もない。むしろ一般的に40~50人で構成される小隊"https://en.wikipedia.org/wiki/Platoon"の方こそ、狩猟採集社会に広く存在する「バンド」と似た数字になっており、それだけ自然な数だと主張することもできる。
 要するに歴史を見る限り、近代の軍における「ダンバー数」は後付けの可能性があるってことだ。あまり信用しない方が安全だろう。
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