うち、軍法定之書の内容は公文書館蔵の軍記1と同じであり、公文書館の軍記2は「兵法秘口伝弐拾四ケ条」を詳細に記したものである。一方、ADEACの軍記下巻に書かれているものは上に紹介した4項目には当てはまらず、具体的な戦況や役職に求められる対策について箇条書きにまとめたものだ。軍法定之書の最後には慶長元年9月11日という日付があり、ADEAC軍記には慶長2歳正月吉日とある。実のところ慶長元年に9月はない"
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7"ようなので、この日付は怪しいのだが、一応これに従うなら16世紀末に書かれたものとなる。
それによると敵から30間(50メートル強)のところに進出した時点で銃兵を「四段に立前三段を折布せ跡より立雙へ打払其前の者打時薬を込三段目打払時又跡立打へし」とある。4列に並べた兵のうち前の3列が座り、最後尾が射撃をした後でその前が立ち上がって撃つ。それを2列目まで繰り返す間に、既に撃った連中は弾込めをするという手順だ。「前一段は不打してためらい可有」とあるので、最前列は敢えて撃たずに敵を警戒させる役目を担っていたのだろう。隙間なく撃てるこの方法を同書では「重打」と称している(39)。
この他に井伊軍記には「鳥打ち」「取次」と解釈できる文章もある。川を挟んで敵と撃ち合う場合に「味方の五百挺三百挺有りとも其中半分上手を選一面に立双打せ残半分には薬を込て替々可打せ何れも不残打たるより利有者也」(39-40)という記述がみられる。腕のいい兵半分のみが射撃を担当し、残りは弾込めに集中させた方が全員で撃つよりも有利だという指摘である。
以上の他に、ADEAC軍記の中には射撃法として「鉄砲の打様は腹打はさめ打廻し打重打開打の五様也」(39)という文言がある。このうち「重打」と「開打」については上に紹介したように同書の中で言及されているが、残る3つについてはそういう話が見当たらない。多分「はさめ打」は両側から挟むように射撃することだろうと想像はつくが、「廻し打」や「腹打」になるとどんなものかよく分からない。敵が廻し打ならこちらははさめ打で対抗しろと言われているのだが、どんな状況を想定しているのだろうか。
井伊軍記を見ていて気がつくのは、出てくる鉄砲の数が限定的であることだ。川向うを攻撃する際に300挺や500挺といった数字が出てくるが、それを除けば2桁の数字ばかり。軍法定之書でも「鉄砲二十」(7/45)「鉄砲廿挺」(10/45)といった規模の数字が中心で、甫庵信長記に出てくるような1000単位の数字は全く見当たらない。
同時にこの程度の規模しかない鉄砲隊が他の兵科と密接に連携を取る必要があることへの言及も多い。ADEAC軍記では武者奉行が「弓鉄砲を透間なく打せ籏を進」て戦う方法(37)、及び弓大将が「鉄砲の薬込む間射する」ことや「鉄砲にも指図」する必要性について語っている(38)。弓と槍の連携策についての話もあり、各兵科数十人規模の兵を複合的に扱う方法についての説明が書かれていると解釈できる。言うなれば大隊規模の部隊に鉄砲や弓、槍、さらにはもしかしたら騎馬武者といった連中がまとめて存在している状態だ。
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