井伊軍記と輪番射撃

 これまで輪番射撃について様々な機会に言及してきた("https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55771675.html"や"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55777055.html"や"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55827723.html")。しばしば輪番射撃の初期使用例として紹介される長篠の戦いに関する記述が当てにならない"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55881988.html"一方、それ以前に日本、欧州、中国など様々な地域で輪番射撃が既に行われていたらしいという点については指摘済みだ。
 で、今回紹介するのはその一例。いわゆる井伊軍記に載っている鉄砲絡みの記述だ。元武田の配下だった面々が、軍法や戦い方の基本についてまとめたという体裁の書物で、こちら"https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2321315100/2321315100100010?hid=ht154280"によれば主に4つの項目から成っているようだが、それ以外の内容について記したものも見つかる。
 具体的に言えば、私がネットで見つけたのは「井伊家軍法定之書」"https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F1000000000000033450"、国立公文書館にある「井伊軍記」2分冊("https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M2015061712093452142"と"https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M2015061712094852143")、そしてADEACに収録されている「井伊軍記 下巻」"https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2213005100/2213005100200010/20/"だ。
 うち、軍法定之書の内容は公文書館蔵の軍記1と同じであり、公文書館の軍記2は「兵法秘口伝弐拾四ケ条」を詳細に記したものである。一方、ADEACの軍記下巻に書かれているものは上に紹介した4項目には当てはまらず、具体的な戦況や役職に求められる対策について箇条書きにまとめたものだ。軍法定之書の最後には慶長元年9月11日という日付があり、ADEAC軍記には慶長2歳正月吉日とある。実のところ慶長元年に9月はない"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7"ようなので、この日付は怪しいのだが、一応これに従うなら16世紀末に書かれたものとなる。

 輪番射撃に触れたうちの1つは、既に紹介している本願寺の鉄砲隊"http://sakigakesamurai.blog46.fc2.com/blog-entry-627.html"と同じだ。鉄砲が「五十挺在之候は廿五挺充互に薬を次申間は小与頭見合一度に不可放廿五挺放時は残りは火縄を挟み最前の筒に薬を込すましたるを見て小頭の下知を可待」(軍法定之書 11-12/45)とある。25挺ずつ射撃し、半数は必ず射撃できる態勢で待機するよう命じているもので、輪番射撃の一種である。
 ADEAC軍記には鉄砲大将の心得としていくつかの項目があげられており、その中にやはり輪番射撃と思えるものがある。中でも興味深いのは「鉄砲を段々に置」という策で、これが本当なら16世紀の時点で日本国内でもビコッカ"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54476721.html"のような輪番射撃が行われていたことの証拠になる、かもしれない。
 それによると敵から30間(50メートル強)のところに進出した時点で銃兵を「四段に立前三段を折布せ跡より立雙へ打払其前の者打時薬を込三段目打払時又跡立打へし」とある。4列に並べた兵のうち前の3列が座り、最後尾が射撃をした後でその前が立ち上がって撃つ。それを2列目まで繰り返す間に、既に撃った連中は弾込めをするという手順だ。「前一段は不打してためらい可有」とあるので、最前列は敢えて撃たずに敵を警戒させる役目を担っていたのだろう。隙間なく撃てるこの方法を同書では「重打」と称している(39)。
 さらにもう一つ、紀効新書撮解"http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0204-009502"に載っているのと同じ手順も紹介されている。曰く「鉄砲三十挺程一手にして段々に備是も敵合二町計を見合先の鉄砲打払たる者左右へ十五挺宛開き薬を込如斯跡々も打せて開き掛りに進」(39)というもので、撮解にある「先の一手左右へさっと開て玉込めなし」(128/340)と同じ内容と言える。井伊軍記によればこれは「開き打」というらしい。
 この他に井伊軍記には「鳥打ち」「取次」と解釈できる文章もある。川を挟んで敵と撃ち合う場合に「味方の五百挺三百挺有りとも其中半分上手を選一面に立双打せ残半分には薬を込て替々可打せ何れも不残打たるより利有者也」(39-40)という記述がみられる。腕のいい兵半分のみが射撃を担当し、残りは弾込めに集中させた方が全員で撃つよりも有利だという指摘である。
 以上の他に、ADEAC軍記の中には射撃法として「鉄砲の打様は腹打はさめ打廻し打重打開打の五様也」(39)という文言がある。このうち「重打」と「開打」については上に紹介したように同書の中で言及されているが、残る3つについてはそういう話が見当たらない。多分「はさめ打」は両側から挟むように射撃することだろうと想像はつくが、「廻し打」や「腹打」になるとどんなものかよく分からない。敵が廻し打ならこちらははさめ打で対抗しろと言われているのだが、どんな状況を想定しているのだろうか。

 井伊軍記を見ていて気がつくのは、出てくる鉄砲の数が限定的であることだ。川向うを攻撃する際に300挺や500挺といった数字が出てくるが、それを除けば2桁の数字ばかり。軍法定之書でも「鉄砲二十」(7/45)「鉄砲廿挺」(10/45)といった規模の数字が中心で、甫庵信長記に出てくるような1000単位の数字は全く見当たらない。
 同時にこの程度の規模しかない鉄砲隊が他の兵科と密接に連携を取る必要があることへの言及も多い。ADEAC軍記では武者奉行が「弓鉄砲を透間なく打せ籏を進」て戦う方法(37)、及び弓大将が「鉄砲の薬込む間射する」ことや「鉄砲にも指図」する必要性について語っている(38)。弓と槍の連携策についての話もあり、各兵科数十人規模の兵を複合的に扱う方法についての説明が書かれていると解釈できる。言うなれば大隊規模の部隊に鉄砲や弓、槍、さらにはもしかしたら騎馬武者といった連中がまとめて存在している状態だ。
 おそらく備(そなえ)単位で指揮を執る人間に必要なノウハウを記しているのだろう。こちら"https://twitter.com/samurai__inui/status/691186177345396737"にあるように「それぞれの備には鉄砲、弓、長柄などが存在し、単体で独立した行動が可能」。備の中にある「組」という組織になると人数は30~50人程度になる"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99"そうで、井伊軍記に出てくる鉄砲の数がほとんど2桁の単位に収まっているということは、指揮官による「組」単位での運用を想定しているからだと思われる。
 この「備」と「組」という単位での運用がどのような由来を持っているのかは分からない。戦国時代を通じて実践的に作り上げられていったのかもしれないし、あるいは同時代の明国で使われていた方法が伝わっていたのかもしれない。こちら"https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo/46/2/46_59/_pdf"によれば1450年の時点で明では火器を使う「神機隊」や、弓を中心とした「弓箭隊」なるものがそれぞれ57人で構成されていたそうだ(p63)。明実録を見れば他に「馬隊」もあった"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=365924"ようで、この程度の数を1つの単位として運用する方法が確立していた様子が窺える。
 興味深いのは日本の戦国と同時代である15~16世紀に欧州で活躍したランツクネヒトが「備」とほぼ同規模のFähnleinという組織を持っていたことだ。その数は400~600人、多い場合は1000人をターゲットとしていたが、実数はもっと少ないことが多かったという"https://de.wikipedia.org/wiki/F%C3%A4hnlein"。後にこの組織は「中隊」Kompanieに取って代わられるようになったそうだ。
 ただ「組」に相当する規模の組織があったかどうかは不明。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=mzwpq6bLHhMC"によれば小隊に当たるRottenという部隊が40人で構成されていた(p487)そうだが、こちら"https://books.google.co.jp/books?id=EWQXBAAAQBAJ"に従うなら16人、こちら"https://books.google.co.jp/books?id=xf3pAgAAQBAJ"に至ってはたった10人とある(p40)。下部組織のサイズは異なっているが、それがひとまとまりの戦闘単位として意味のある活動をするには数百人の単位がどうしても必要だった、ということかもしれない。
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