大陸軍 最後の勝利? 6

 承前。前回はスフェルの戦闘に関する文章"https://books.google.co.jp/books?id=98FhAAAAcAAJ"を紹介するだけで手いっぱいだったが、この文章はヴュルテンベルクの参謀本部がまとめたものが元になっている(p476n)そうで、それなりに信頼度はあると思われる。皇太子の報告では詳細が触れられていなかった連合軍右翼の状況が分かるほか、フランス軍の騎兵による反撃への言及もあるなど、非常に興味深い文章だ。もちろんこの文章は基本的に連合軍の視点で書かれたものであることは忘れてはならないが、それを踏まえたうえでもおそらく戦闘の実態を最もよく伝えているものだと思う。
 それに他の史料との整合性という意味でも重要な記述がある。連合軍右翼についてはユサール連隊がオーバーハウスバーゲンまで前進したこと、そこでヴォルフィスハイムとエコルスハイム間にいる敵を発見したことについて記述があった(p479)。この敵はシュナイダーの報告にある「サヴェルヌ街道上に騎兵とともに配置され、左翼をエックボルスハイムに置いた第17歩兵師団」のことだろう。彼らは「僅かに攻撃を受けた」とあるので、この方面まで連合軍が進出していたことが双方の史料から裏付けられることになる。
 ムンドルスハイム周辺にブドウ畑があることはこの史料の他にフリリオンの伝記にも触れられている(p77)。スフェルヴァイアースハイムの戦闘が長期にわたって続いたことや、ヘンハイムが一度フランス軍の攻撃を受け、その後で彼らが逆襲されたこともまた、フリリオンの伝記やヴュルテンベルク皇太子の報告と平仄があっている。スフェル河畔の2つの村を奪った後でブリュマト街道上を進んできた連合軍がフランス側の大砲を奪ったという流れも、一連の史料と一致している。
 他の史料にはないことが最も詳細に書かれているのは、フランス軍の反撃が行われた後に何があったかという部分だろう。ラップの言い分ではこの攻撃で連合軍は壊走したことになるし、シュナイダーの報告も連合軍が崩壊したと述べてその後についてはあまり書いていない。フリリオンはフランス軍の前進が限定的であったと述べているが、連合軍が何をしていたかについての記述は明白ではない。ヴュルテンベルク皇太子の報告には、そもそもフランス側の反撃についてのはっきりとした説明が載っていない。
 今回の文章はその部分の流れをきちんと書いている。確かにフランス騎兵の突撃はあり、味方の第4騎兵連隊が窮地に陥った。だが彼らは後続の騎兵によって救出され、フランス騎兵は撃退された、というのがこの文章の説明だ。さらにこの戦闘の際にフランス軍は追加で2門の大砲を奪われたことになっている。つまり連合軍は2回、敵の大砲を奪ったことになる(p482n)。
 このあたりの記述はフランス側の史料に見当たらない部分になるため、信頼度は他の部分より高くはないだろう。ただ結果的にスフェル河畔の2つの村を連合軍が維持していたということは、フランス軍の反撃は大した成果を上げることなく終わったと推測する論拠になる。少なくともラップやシュナイダーの報告にあるような一方的戦果が反撃によって得られたと考えるのは無理だろう。スフェルの戦いを、ラップが喧伝し今でも一部のネットで繰り返されているような「フランス軍の勝利」だったと見做すのは、流石に無理だと思う。

 一方、連合軍が述べていないが事実だったと思われるのは、戦闘の翌日にスフェルヴァイアースハイムが炎上したことだろう。ラップだけでなくシュナイダーも言及しており、他にブラール将軍やフリリオンといったフランス側参加者も口を揃えている。一方、ヴュルテンベルク皇太子はこの件について全く言及していないし、ジェンキンソンの報告にも見当たらない。
 火事の原因が連合軍側にあるという証拠はないが、連合軍側の参加者たちが火災があったこと自体に口をつぐんでいるのを見ると、彼らに後ろ暗いところがあるのではないかと疑いたくもなる。火は剣、飢餓と並ぶ戦争の惨禍の代表例"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55785615.html"だが、ワーテルロー戦役の主戦場ではなかったライン河畔もこの惨禍からは逃れられなかったようだ。

 追加で1つ。スフェルの戦闘についてはSiborneの本"https://books.google.co.jp/books?id=ICfSAAAAMAAJ"に奇妙な数字が載っている。それによると連合軍第3軍団の損害は「死傷者が士官75人、兵2050人に上った。フランス軍は約3000人だった」(p488)と書いているのだが、この数字はSiborneの本にしか見られない。フランス語文献には見当たらないし、ドイツ語ではSiborne本のドイツ語訳"https://books.google.co.jp/books?id=WxpCAAAAcAAJ"しか見つからない(p394-395)。
 一方、ドイツ語文献ではこれまでも書いてきたように「死亡が士官7人と兵200人、負傷が士官42人、兵1047人、合計で士官49人、兵1247人」("https://books.google.co.jp/books?id=ol1hAAAAcAAJ" p222)となっている。1818年に出版されたこのDer Krieg des verbündeten Europa gegen Frankreich im Jahre 1815ではさらに、フランス軍の損害が3000人に上り、うち捕虜はたった200人。ヴュルテンベルク軍は大砲6門と軍旗2本を奪ったとも書いている(p223)。
 同じ数字は他のドイツ語文献でも見られる。例えば1865年出版のこちら"https://books.google.co.jp/books?id=T0ZBAAAAcAAJ"では「死傷者が士官49人、兵1247人」(p442)とあるし、1890年出版のこちら"https://books.google.co.jp/books?id=Ms0OAAAAYAAJ"でも「ストラスブールの戦いにおける第3軍団の損害は全体で士官49人、兵1247人になった」(p216)と記されている。
 1838年出版のこの本"https://books.google.co.jp/books?id=3y1IAQAAMAAJ"には「これらの戦闘における第3軍団の損害は、士官49人、兵1247人の死傷者に達した」(p213)と書かれている。この本はフランス語訳"https://books.google.co.jp/books?id=62RIAAAAYAAJ"も出版されており、そこにも同様の文章が書かれている(p170)。
 実のところ、前回紹介した文献に出てくる損失数はこれらの数字とは違う。それによると損害は「死者が士官7人と兵156人、負傷者が士官41人と兵1048人」で、合計は士官48人、兵1204人になる。見ての通り完全に一致はしていない。だがSiborneの数字ほどずれてはいない。彼の出した数に比べれば誤差の範囲と言えるくらいだ。
 一体Siborneはどんな論拠に基づいて「士官75人、兵2050人」という数字を出してきたのか。どこかの一次史料を参照したのか。おそらく違う。Siborneの数字は多分彼の勘違いに由来している。彼はDer Krieg des verbündeten Europa gegen Frankreich im Jahre 1815に載っている損害表を見て、間違った足し算をしてしまったのだ。
 同書"https://books.google.co.jp/books?id=ol1hAAAAcAAJ"のp222にある損害表をもう一度見てみよう。左側にこれまで紹介してきた数字が載っているのだが、それとは別に右側に(Wirtemb.)と書かれた別の数字が載っている。その数は死亡が士官4人、兵68人で、負傷が士官22人、兵735人だ。これは第3軍団の被害に占めるヴュルテンベルク兵の損害数を抜き出したものであり、要するに左側の数字に含まれる「内数」だと見做せる。
 ところがSiborneはどうやらこれが内数ではないと勘違いしたらしいのだ。右側はヴュルテンベルク軍の損害であり、左側はそれ以外(つまりオーストリア軍やヘッセン軍)の損害だと思い込んだ彼は、連合軍の全体の損害を出すため、この2つの数字を足し合わせた。結果、士官の損害は49+26の75人、兵は1247+803の2050人として、それを本に書いてしまったのだろう。
 困ったことにSiborneの本は特に英語圏では信頼に値する文献と見なされている。そのため英語wikipedia"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_La_Suffel"では彼の数字がそのまま連合軍の損失として記載されてしまっている。さらにそれがフランス語wkiipedia"https://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_de_La_Souffel"にまで転載されているのだから、ミーム汚染は広がっていると言えよう。
 この事態を解決するには、誰かがドイツ語文献に基づくこの戦いの経緯をドイツ語wikipediaにでもまとめる必要がある。だが果たしてそんなマニアックな取り組みをする物好きが存在するのかと言われると、たとえ欧州であってもその可能性はあまり高くなさそうだ。間違ったミームはそのまま残り、さらに広まると見た方がいいのではないか。残念であるが。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック