承前。「大陸軍の最後の勝利」とされるスフェルの戦闘について、フランス側と連合軍側の史料に違いがあることを紹介した。ラップの言い分に従うなら連合軍は最後に壊走したはずだが、連合軍側が戦闘直後に残した史料を見る限り彼らはむしろフランス軍を圧したまま戦いを終えたという認識を持っていた。
どちらがより信頼に値する史料であるかと言えば、それは文句なしで連合軍側だ。ヴュルテンベルク皇太子の記録は彼が戦いの「報告」として書いたものであり、おそらく戦闘から大して間を置くことなく執筆されたものだろう。ジェンキンソンの報告も同じ。一方、ラップの記録は「回想録」に収録されている。出版時期は1819年なので戦いから何十年も経過しているわけではないが、それでも連合軍側の記録には負ける。
「1815年6月28日の戦闘報告
スフェルの対岸で大軍を集めた敵は28日午後2時、約2万5000人の戦力で前進し、まずは迅速にランパートハイム村を攻撃した。そこを占拠していた第10軽歩兵連隊は、しかしながらスフェルのこちら岸、ムンドルスハイムに後退するよう命じられていた。この移動は秩序をもって損害なしに実行され、敵は即座にこの村に4000人以上の歩兵を差し向け、大砲4門で持続的に砲撃することで、そこを奪おうと試みた。第10軽歩兵を指揮下におくブルマン将軍は大いに頑強にそこを守った。3時頃、攻撃は全面的になった。スフェルヴァイアースハイム村とロタンブール中将の戦線全ては砲撃されて攻撃を受け、激しく防御を行った。だが敵は騎兵の多大な優勢を利用し、第15及び第16師団の間にある中央部に突入した。そこには騎兵5個大隊といくつかの大砲しか存在しておらず、この移動によってムンドルスハイムの撤退が必要になり、ロタンブール将軍は左翼を後退させることを強いられた。彼は正面と右翼で一歩も退くことなく、それを実行してのけた。
最大射程で砲撃した後に砲架を壊された軽砲3門が敵の手に落ちたのは、この激しい敵の移動の際であった。
予備部隊の砲兵と、司令官によって駆け足で移動させられた歩兵の2つの方陣が、すぐ中央の敵を食い止め、その間に我々の騎兵は右翼で再編成した。
敵は主要攻撃を続けたが無駄で、それ以上突入することはできなかった。最後に夕方6時頃、第11及び第19竜騎兵と右翼の第7猟騎兵を統合した司令官は、全面突撃を命じて自身でそれを率い、その優れた攻撃は完全な成功を収めた。敵は崩壊し地面には敵の死体が散らばった。結果、あらゆる兵科が我らの優位を維持するのに貢献した。左翼に敵があふれたロタンブール師団はあらゆる方面で敵に対してマスケット銃と大砲の斉射をやめなかった。日没時に彼らはヘンハイム、ビシュハイム及びシルティヒハイムを支配下にとどめ、軍はその陣地を右翼ではこれらの村々に置き、左翼はストラスブール方面に後退させ、この重要な地をこの方面で完全にカバーした。
我々の死傷者は510人だった。敵の損失は我々とは全く比べ物にならなかった。この点について受けた報告によれば3000人以上に達し、その中には2人の将官がいると言われる。そのうちの1人、致命傷を受けたフェルディナント公はアグノーへと輸送された。オーストリアのブランケンシュタイン・ユサールは、我らの手にとどまった戦場に最も多くの死者を残した。
(中略)
サヴェルヌ街道上に騎兵とともに配置され、左翼をエックボルスハイムに置いた第17歩兵師団は、僅かに攻撃を受けた。彼らは敵を押し戻し、陣地を維持した(後略)」
基本的な流れはラップの回想と変わらない。まずランパートハイムで、続いてムンドルスハイムとスフェルヴァイアースハイムで戦いが行われ、ロタンブール師団の左翼が後退する。続いて2個師団の中間部分に連合軍が突入し、フランス軍の大砲が奪われる。その後で騎兵突撃を含めたラップの反撃が実施され、連合軍にダメージを与えた。
だがラップの記述と違うところもいくつかある。シュナイダーはムンドルスハイム村を攻撃した連合軍戦力が4000人だったとしているが、ラップはそれ以前に行われたランパートハイム村攻撃の時点で敵が8000人もいたと書いている。奪われた大砲の数をシュナイダーが3門としているのに対し、ラップは4門と書いている(さらにジェンキンソンは5門、ヴュルテンベルク皇太子は6門としている)。
反撃となった騎兵突撃に参加した兵力のうち、シュナイダーは第19竜騎兵に言及しているが、ラップの回想録にはその名がない。逆にラップが言及している第32歩兵連隊について、シュナイダーは触れていない。自軍の損害についてシュナイダーは死傷者が510人としているのに対し、ラップは700人が戦闘能力を失ったと書いている。
何よりも重大な差違は最後に行われたフランス軍の反撃とその結果だろう。ラップは反撃の結果として連合軍が壊走し、後方にあった物資まで奪われたと書いている。一方、シュナイダーは敵が「崩壊した」と書いているものの、物資の略奪については全く言及していない。さらに戦闘が終わった時点で自分たちが占拠している地域について言及しているのだが、その中に両軍が争ったムンドルスハイム村とスフェルヴァイアースハイム村の名前がない。戦闘後の両軍の配置について口を拭っているラップの記述からは分からないことが、シュナイダーの報告から窺えるのだ。
戦場より北方、アグノーのところまで混乱が広がったと主張しているのは戦闘直後に書かれた報告書の中には存在しない。そう主張しているのはラップだけだ。一連の史料を見る限り、この日の戦いでスフェルの防衛線は崩壊している。フランス軍はかろうじて川岸より南に戦線を敷いて連合軍の前進を食い止めた格好だ。シュナイダーは戦場が「我らの手にとどまった」としているが、実際にフランス軍の手の内に残った戦場はヘンハイムなどごく一部。ランパートハイムを含め、その大半は連合軍のものとなっている。戦いの後に戦場に残った者を「勝者」とするのなら、この戦いの勝者は連合軍だ。
ただしフランス軍が勝った、と主張する方法もないではない。そのやり方の一つが、両軍の損害を比べることだ。フランス軍の損害は、あくまで彼らの主張に基づくならばだが、510人(シュナイダー)あるいは700人(ラップ)となる。一方、連合軍側の損害はフランス側より詳細に調べられている。ヴュルテンベルク皇太子の報告にはないが、1818年に出版されたこの本"
https://books.google.co.jp/books?id=ol1hAAAAcAAJ"によれば第3軍団がこの戦闘で受けた損害は戦死が士官7人と兵200人、負傷が士官42人と兵1047人。合計すると士官49人プラス兵1247人で1296人となる(p222)。フランス軍の方が損害が少ないと主張しているから勝ったのだ、と言い張ることもできるかもしれない。
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