大陸軍 最後の勝利? 2

 承前。実はスフェルの戦いで勝ったのは連合軍だという指摘は、フランス軍勝利説に負けないくらい多数ある。前回のBodart本もその1つだが、他にも例えばSiborneが書いたHistory of the War in France and Belgium, in 1815"https://books.google.co.jp/books?id=ICfSAAAAMAAJ"がある。曰く「合わせて4万人以上にのぼる戦力を持つヴュルテンベルク皇太子は28日、賢明な戦闘の後にラップ将軍をストラスブール要塞内へと退却させるのに成功した。この際の第3軍団の損失は死傷者が士官75人、兵2050人に達した。フランスの損失は約3000人だった」(p488)。
 クラウゼヴィッツの書いた本"https://www.clausewitz.com/readings/1815/five50-58.htm"では「6月28日、ヴュルテンベルク皇太子はストラスブールでラップ将軍と交戦し、後者は要塞内に後退して皇太子はそれを囲んだ」とだけ書かれており、ラップが勝利したとは書いていない。ラ=スフェルの戦いに関するフランス語wikipedia"https://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_de_La_Souffel"も同様で、英語版の方がフランスの勝利だとしているのに対しこちらは「連合軍の勝利」と定義している。
 どうやらこの戦いに関してはラップと異なる主張をしている人物がいるようだ。だからこそ連合軍勝利という説を採用した文献があるのだろう。そちら側の言い分も聞かなければ公平さに欠ける。というわけで1816年に出版されたこちらの本"https://books.google.co.jp/books?id=VkdBAAAAcAAJ"に採録されているヴュルテンベルク皇太子自身の戦闘報告(p413-419)を紹介しよう。報告書自体は27日の戦闘も含まれているが、ここでは28日の戦闘のみを紹介する。

「6月27日と28日の第3軍団の活動に関するヴュルテンベルク皇太子の報告
 (中略)
 かくして6月28日、第3軍団はブリュマトの背後で攻撃縦隊を以下の序列で組んだ。王立騎兵、ダルムシュタット歩兵師団、オーストリア軍ヴュルテンベルク皇太子ユサール、オーストリア歩兵師団、王立歩兵。敵は実際に[スフェル川の戦線に]布陣した。その最右翼はイル川に拠った。ルプレヒツアウの砲台と塹壕を掘ったヘンハイム村はこの地の防御拠点となった。正面の前で敵はライヒシュテット村とスフェルヴァイハースハイム村を見下ろしていた。左翼はムンドルスハイムとランパーツハイムの高地にいた。戦闘の間、敵の戦力は少なくとも2万人の集団と多くの大砲に達した。縦隊がフェンデンハイムから出撃するや否や、皇太子殿下は兵に攻撃を命じた。王立騎兵は歩兵の前進をカバーするため敵の陣地へ行進した。ヘッセン師団はムンドルスハイムとランパーツハイムへ急ぎ差し向けられた。オーストリア軍ヴュルテンベルク皇太子ユサールはオーストリア[歩兵]師団とともにランパーツハイムのヘッセン軍の後方を迂回して敵の左側面を奪った。王立歩兵は敵の左翼と中央に対し、左翼にヒューゲル旅団、中央にミザニ旅団、右翼にホーエンローエ旅団が配置された。ドルゼンハイムにいた第3軍団の伯爵ヴァルモーデン将軍はベッテンホーフェンとヴァンツェナウを経由した。ヘッセン軍は4時前に戦闘を始めた。両軍は激しく戦った。5時に敵右翼は陣地から追い出された。オーストリア軍団はスフェルの険しい川岸に陣取った敵を迂回する時、地形に大きな困難を覚えた。にもかかわらず彼らはニーダーハウスバーゲンからの敵の強力な射撃の中で作戦をやり遂げた。だが敵は、この縦隊が側面に到着する前に後退する時間を稼いだ。3時に歩兵将軍フランケモン伯爵は、ヒューゲル旅団を使ってライヒシュテット村とスフェルヴァイハースハイム村を攻撃するよう皇太子殿下から命令を受けた。そこで彼はこの旅団に第1砲兵中隊を与え、攻撃を命じた。歩兵将軍はホーエンローエ旅団とミザニ旅団に支援させた。
 この村がスフェル川左岸に位置するため、おそらく孤立することを恐れた敵は、我々の兵が到着する前にライヒシュテット村を撤収した。次にスフェルヴァイハースハイムへ攻撃が向けられた。村とそこを斜面にもつ高地は歩兵が大量に占拠しており、彼らは2つの縦隊に激しい射撃を浴びせた。だがヒューゲル将軍は兵の先頭に立って止まることなく行進し、この地域でスフェル川に架かっていた橋が壊されていたために兵たちは尻まで水に浸かってこの村を強襲して落とした。敵は今や高地の稜線に位置し、かなりの歩兵増援を受け取り、砲列を敷いた。激しい撃ち合いが行われ、それは王国兵にとって血腥く、それ以上に名誉あるものだった。当初スフェルを渡る唯一の渡河点が湿地に準備されていたため第1砲兵中隊が戦線にたどり着くことができず、スフェル左岸のかなり遠方から砲撃しなければならなかったにもかかわらず、繰り返された敵の凶暴な攻撃は常に頑強に撃退された。その間、皇太子殿下は相互の砲撃下で、ブリュマトからストラスブールへ至る主要街道の両側へ王立騎兵を送り、石橋を超えてスフェルの対岸へ出撃した。その間、側面からの支援として、伯爵グレフェニッツ少佐は騎兵師団とともに、敵陣地の中央高地にある敵大砲6門を奪った。この企図の直後、同じ高地に王国の2ポンド砲が投じられ、敵は大いに傷つけられた。少し左には第1騎馬砲兵中隊が置かれ、第2騎馬砲兵中隊はユサール連隊と一緒に軍団の右翼に配置された。ヒューゲル将軍は既に4時間にわたって戦っていた。敵は要塞の大砲から撃ち下ろしてきたが、にもかかわらず敵はスフェルヴァイハースハイム村に対する企図を諦めようとはしなかった。なぜなら村の向こうに位置する周囲を見下ろす高地は敵の塹壕から散弾の距離にあり、従って反対側にいる兵には維持できなかったからだ。ヒューゲル将軍の右側面を支援するため、歩兵将軍フランケモン伯爵は今度はヴィルヘルム公第2歩兵連隊を前進させ、公爵ホーエンローエ少将が彼らを砲火に導いた。ヴュルテンベルク軍の最左翼を形成していた第11狙撃兵連隊は、敵をヘンハイム村に追い込んだ。だが彼らは敵の射撃で大いに被害を受け、弾薬を全て失った。彼らは後に夕方に第4歩兵連隊第1大隊と交代した。ヴュルテンベルクの戦線における射撃は午後10時まで続いた。敵が地形の優位と塹壕及び要塞の防御施設の保護を受けていた陣地は征服され、7時間にわたる戦闘でも維持された。伯爵ヴァルモーデン将軍は彼の縦隊とともにヴァンゲナウに来たが、危険な隘路のためそれ以上は前進できなかった。敵の損失は極めて多数に及び、戦場はその死体で覆われた。だが我らの損害もかなりのもので、名誉ある結果によって埋め合わせられなければ王国軍にとって痛みを伴うものだったろう。フランス軍はよくやったが王国兵は敵の勇気により大きな勇気で応え、戦闘を通じてしばしば敵を要塞の城下まで追撃しないことに対する彼らの不満をなだめる必要があったほどだ。皇太子殿下は、アダムス公殿下同様、健康である。殿下と歩兵将軍フランケモン伯爵は6月29日、司令部をフェンデンハイムに置いた」

 さらに英国の派遣武官であったジェンキンソン中佐の6月29日付報告"https://en.wikisource.org/wiki/Supplement_to_The_London_Gazette_of_Tuesday_11_of_July"も紹介しよう。

「(前略)殿下の軍団がこの地[ストラスブール]に到着した時、ラップ将軍は左翼をランバートハイムとムンデンハイムの村及び高地に、右翼をラインに拠った陣地を占拠していました。正面は小さな川でカバーされており、騎兵と砲兵はランバートハイム村とスフェルヴァイアースハイム村、及び主要街道上の橋でしか渡ることができませんでした。
 従ってこれらの地点に殿下は攻撃を振り向け、騎兵の隊列を詰めて敵に襲い掛かって村々から追い払い、また敵陣地の左翼を迂回するため強力な騎兵と歩兵の縦隊を送り出すことで要塞へと押し出すよう脅かし、もし敵の目的がさらなる退却にあるのなら敵陣地の重要な地点の放棄を強いようとしました。
 敵は当然そうするだろうと想定されたように、これらの地点すべてで執拗に抵抗し、破壊的なマスケット銃及び大砲の射撃を続けました。ですがこの軍団を構成する兵たちの勇気には何者も逆らうことはできず、彼らは止まることなく敵陣地を襲撃し、近くにいた騎兵は駆け足で主要街道上の橋を渡り、フランス騎馬砲兵の大砲5門と弾薬箱、及び何人かの捕虜を奪い、要塞の大砲が砲撃してくるところまで敵を追撃しました(後略)」

 見ての通り、どちらもフランス軍の手で「壊走」したなどとは書いていない。一部の部隊が大きな損害を受けたものの、彼らはラップの陣地を奪い、大砲を奪ってフランス軍を追い詰めた、という認識を持っている。ラップの回想録とは随分な違いだ。以下次回。
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